レイリーブルー(1)

一、プレリュードは切なく

 運命って信じる? クラスメイトの女の子が俺に向かって愉しげに言う。
 これは俺の机なんだけど。
 椅子ごと振り返ってわざわざ頬杖をつき、なめらかにおろされた翡翠色の髪を、あいた指先でくるくるともてあそびながら試すような目をして首を傾げる。彼女の瞳に映る自分は表情もなく、その形のない不安定な問いに思考を巡らす。
 さぁ、俺は別に。さして仲良くもないクラスメイトに特別な感情を抱くこともない。知らない。この人じゃ無い。それだけは最初からわかってた。
 俺の中に昔からあるちいさな空想の扉。心の中の、すぐ手の届く所にあるそれに、そっと手をかける。
 運命か。もしもそういうものがあるならこの扉の向こうにひとつある。
 これが何を表すかわからない。わかるのは「メイス」っていう単語だけ。小さい頃からこの言葉を呟くと、胸がきゅうっと寄り添って温かい気持ちになる。きっとこれが俺を豊かにしてくれる。漠然と、水の中にとっぷり落ちて、すべてを包んでくれるような安心感がその言葉にはあったから。
 まぶたを閉じてその扉を開くと、色も形も知らないメイスに手を引かれ、その向こうへ一緒に歩き出す。
 その瞬間俺は、世界で一番幸せな人になる。
 しかし同時にチャイムが鳴ると、扉はすっと溶け消えて、繋いだ指先も泡になった。彼女はつまらなさそうに教室を出て他の子達と笑いながら帰っていく。俺はつい、メイスを探して窓枠の外を見る。
「うわ、外真っ赤。俺も帰んなきゃ」
 携帯のディスプレイには部活の県大会で優勝した時にみんなと撮った写真が当てはめられ、スリープボタンを押すと名残惜しむ間もなく消灯する。ズボンの後ろポケットに押し込み歩けば、キーホルダーが歩幅に合わせてとん、とん、と尻を叩く。そんなほんの少しの違和感が上の空な俺の心を安らかにした。
 それと同時に沸き起こる泥濘。
 運命、って、なんだろう。
 呼び起こされるのはやはりメイスという単語。迷ったとき、悲しいとき、夢の中へ行きたいときも、呼べばいつでも来てくれる。一緒に遊んで、慰めてくれる。
 けどそれだけじゃ足りない。この手で触れてその存在を確かめたい。ひとり暗い迷夢を彷徨いながら、俺はもう何年もそれを待ち続けていた。
 最寄駅から家までの畦道をひとりで歩く。同じ方向の友人がいないから仕方がないのだが、俺はこの時間がたまらなく好きだった。遠くに沈む赤い夕日、遮るもののない真っ直ぐな地平線を眺め、あの向こうにメイスがあるのかと思いを馳せる。哀愁を乗せた熱がじんわりと身を焦がして、切なくて目を細めてしまう。空想のメイスと、美しい景色と寂しさを分かち合う。そうやって俺の一日は過ぎていった。
「ただいまァ」
 スポーツバッグを風呂場に置きリビングへ向かうと、テーブルでは妹がサメのぬいぐるみに服を着せて遊んでいた。制服のネクタイをしゅる、と緩め、暖色の蛍光灯の眩しさにくらりとする。オープンキッチンから声をかける母へ目をやると、カラカラと油の跳ねる音と妹の甲高い声が頭の奥で絡み合い、夕食の香りとともにメイスの気配は煙となって消えてしまう。さっきまでそこにあった丸い跡地が虚しくて、返事をするのも億劫になる。
「アリエスーお兄ちゃん帰ったからご飯食べて」
「おにぃ! おかえりぃ!」
 ぱっとこちらを振り返った妹は、よじよじと奮闘しながら椅子を降りる。勢いよく、俺の膝にがっちり抱きつき、頭を撫でると持っていたサメを嬉しそうに差し出した。
「ただいまーアリエス。サメさんと何してた?」
「おきがえしてたぁ! これね、お母さんがね、作ってくれたの、ピンクのスカートいいでしょう?」
「よかったねー、可愛い可愛い」
「ゲーラ手洗ったの? 唐揚げもう少しでできるから先に他の食べててね」
「へーい。あっ、アリエスだめ、あっぶな、皿落とすから!」
 サメを自慢して満足した妹はすぐさまテーブルへ戻り、並べられたカトラリーに手を伸ばす。やーだ! と言ってサラダの皿を無理に引っ張っていく彼女は、ひとまわり以上も違うまだ幼稚園児だ。
 アリエス。彼女が生まれる時、きっとこの子がメイスだと俺は大いに期待した。
 中学生になっていた俺の中はすでにメイスでいっぱいになっていて、日に日に大きくなる母のお腹に、両手で抱えきれないほどの狂喜を抑えるので必死だった。
 どんな話をしよう、どうしたら俺を好きになってくれるかな。この新しい命が俺にしてくれることに、俺の全部を以って返さなくてはと息巻いていた。
 しかし親が決めた名前はまったく違うもので、まだ生まれたばかりの無垢な寝顔に俺は落胆した。俺と同じ赤色の瞳、赤色の髪。祝福されるべき存在を俺は素直に受け入れられず、彼女が俺に笑いかけるたびに、芽生えた期待が排水溝へ勢いよく流れ消えていく。
 妹への罪悪感と、一からやり直しかという徒労感が、俺の世界をからっぽなまま膨らませていく。あてどない、終わりのない、正解もないこの道はどこに繋がっているのか。時折不安になる。
 メイスに早く出会いたい、そして俺の中をそれで満たして欲しい。そう思って俺は毎夜、枕を抱きしめて浅い眠りについた。
 
 ある日SNSで見つけた風刃というアカウント。どこかでみたことがあるような気がし
てならなくて、しかしプロフィールを見てもピンとこない。自撮りがないかとホームを流し見ても、アップロードされているのはご飯か犬の写真ばかり。それも片手で数えるほどしかなかった。
「……っかしいな」
 どれだけ遡ってもわからないひととなり。更新は多くても一日数回程度で、日付を見ると一週間以上放置されている時もある。
 今日はバンド、今日は映画、今日はバイト。
 住むところも違うようだしやはり気のせいか。しかしこの既視感はなんだ。指先にはぴんとした緊張が蔓を巻き瞬きも忘れるほどで、画面をスクロールする手が止まらない。
 不思議な感情だった。彼は俺にとって何か大事なものを持っているんじゃないか、そんな気配が足元からぞわぞわと襲いかかる。
 投稿されている内容はただのタスクチェックなのに、ひとつひとつにフォロワーからのコメントがたくさんついている。今日も格好良かったとか、大好きですとか、やけに風向きが俗っぽいのは、彼がバンドマンだからだろうか。
 いっそ本人に聞いてしまおうか。そんな暴挙が頭をよぎるが、流石に知らない人に急にメッセージを送るのは却下だ。
 まして「俺と知り合いですか?」なんて。
 ひとまず落ち着くためにディスプレイを閉じる。しかし我慢ならずまたすぐに開いてしまう。どうにも放って置けないまま、この得体の知れないバンドマンのホームを陰ながら見守る日が続いた。
 それから一週間経ち、いつものようにベッドに寝転がり彼のホームを眺める。今日は珍しくピクチャマークがついていて、タップすると一匹のポメラニアンの写真が更新されている。首から下だけで一緒に写っているのは、ピンク色のタンクトップに黒のライダース、胸元まである濡羽色に艶めいた長い髪。
「うそ」
 その姿を見た途端、ぶわ、と目の前に風が吹いた。
 その風は俺の扉をごく自然に開け放った。もっと見て、早く知ってと催促し、その向こうで白い小さな花を咲かせる。可憐なそれは瞬く間に視界一面に広がり、ざわめきから目が離せない。
 否、そんな恥ずかしい表現をするつもりはなかったけれど、その時感じたのはまさしくそれで、いつかの夢の中、空の青さと同じ色の、空よりも当たり前にあったものに違いなかった。知ってる、やっぱり俺はこれを知ってる。
 まるで落雷の衝撃に俺はベッドから飛び起きて、画面にかぶりついた。
「これ、風刃さん?」
 タスクばかりだったホームへ突然舞い降りた日常の風景に、他のフォロワーから送られるハートがどんどん増えていく。よく見ると写真と一緒にアップロードされたコメントには「ケンちゃん、ご飯じゃないよ」とあり、風刃さんのものと思しき指をそのケンちゃんがくわえている。たったそれだけの言葉だが、トゥドゥノートの連続だったこれまでと比べると、彼の醸す雰囲気を推し量るには十分すぎるくらいに温かだった。
 まじか、本当に? 突然わかってしまった風貌はしかし予想以上にかっこよくて、力が抜けて携帯が手のひらから滑り落ちた。
「あっわ、やべっ!」
 間一髪、持ち前の反射神経で床に落ちる前に拾い上げた。が、同時に鳴る電子エフェクト。どうやらハートマークを付けてしまったらしく、赤く点灯するピクトグラムに頭をかく。しまったな、フォロワーでもない奴がリアクションしてしまって大丈夫だったろうか。しかしそれを取り消すことも何となくはばかられ、まごついているうちに俺のハートは他に埋もれて遠くへ流れてしまった。
「……まぁ、いっか」
 わざわざ返事が来る訳はないだろう。偶然、うっかり、そんなのはよくあることだ。
 次の日携帯のディスプレイが出し抜けにポンと光る。見るとゴシック体で『風刃さんからメッセージです』とある。
 風刃さんだ! 返信だなんてそんな馬鹿な。怪訝に思いながら開いた初めての交信は、丁寧かつ電波な文章だった。
『こんにちは、ハートありがとう。突然ですみませんがどこかでお会いしましたよね?』
 おいまじかよ。そう来る?
 不可抗力ではあるが自分からアクションを起こした手前、その電波に乗らざるを得ない。しかしなんて返す。苦し紛れに、すみません間違えましたと返信する。まぁこれでいいだろう。届いたメッセージ自体にも一応ハートをつけて友好的であることを示す。
 次の日またポンと通知欄が光る。見ると昨日と同じ名前。
『いやいや、俺君のこと知ってるよ。だって雷刃だろ?』
「ええー、何だこの人……」
 そうだけど! 確かに風神雷神からとったけど! 名前が似てるからって知り合いとは限らないだろ。手をこまねいている間にさらに届く通知に困惑の色を隠せない。次いで受信したのは、全部を見透かしたような自信に満ちた挨拶だった。
『俺の事がわからないなら今はそれでもいい、だが俺たちはきっと仲良くなれる。よろしくな、相棒。』
 相棒。
 この人本当に、何者なんだろう。最初に感じた既視感と一陣の風が、追い風となり俺を引きつける。つい好奇心が勝ってしまい、ディスプレイに文字を打ち込む。
『うん、雷刃って名前です。仲良くなれるかな、じゃあよろしくお願いします』
 それから風刃さんは、律儀におやすみと返事をくれて、俺はそのことを空想のメイスに報告してから、緩やかに眠りについた。
 風刃さんは最初の印象の通り淡白な人で、だけどその爽やかさが心地よかった。彼からのメッセージを開くとそこからいろんな世界に繋がった。音楽のこと、最近買ったバイクのこと、哲学的な考え方や、水族館が好きだとも言っていた。どれも俺の知らない模様を作り出して、万華鏡のように輝いた。
 いつしかディスプレイに風刃さんの名前が表示されるのが待ち遠しく思うようになった。それを伝えると彼もそうだと言ってくれて、胸の辺りがくすぐられ楽しい気持ちになる。
 俺はきっと、「ちょろい」んだな。少し優しくしてもらうだけでこんなに彼のことでいっぱいになって、つい踏み込んで、自分のこともたくさん話してしまうんだから。風刃さんは個別の繋がりを重視するタイプらしく、ホームの更新をしない時も俺にメッセージをくれる。他の人とも同じように接しているとはわかっていても、やはりどうしようもなく嬉しくなった。
『そういえば風刃さんって、いくつなの?』
『俺は高校生だ。でも年の差なんて俺たちには関係ないだろ?』
 すぐに返ってきた返信の中の、普段友達との会話では絶対に生まれない甘い言葉。顔が綻ぶのがばれないように頰をつまんで、なんと返事をしようか悩んだ。否定なんてしない。でもただ肯定するのも違う気がした。まだお互いをほとんど知らないのに、そんなに近くに行ってしまっていいんだろうか。
『俺口説かれてるの? 俺も高校生なんだ、なんか楽しそうだからよかったら今度遊びに行かない?』
 結局簡単なスラングをつけて笑い、ついうっかり欲を出して言った言葉。軽く流されるか受け入れられると思っていたが、それから彼からの連絡はぱったりと途絶えた。
 ひと月空いてもディスプレイは暗いままだ。
 アプリを開いて、更新して、ホームへ行っても音沙汰はない。最新の投稿には他の人のコメントがいくつか増えたようだが、なにも動かない彼のホームは永遠に止まってしまったようにさえ思えた。一度だけ心配になって、元気ですか? とメッセージを送ってみたが、既読になったまま新しいメッセージが届くことはなかった。
 さらにまたひと月待ったが返信はない。しかし時が経つにつれ彼のホームは少しずつ更新されはじめ、ついため息をつく。
 今日はバンド。そうなんだ、頑張ってください。
 ベッドに仰向けに寝転がり、携帯のロックをかけたり解除したりして、遣る瀬なさを持て余す。もう一度送ろうか、忙しいんだろうかとひとりごち、寝返りを打って少しだけまどろむ。今、この瞬間にもディスプレイが明るくならないかと夢物語を描きながら、叩いても揺すっても沈黙を破らない端末を雑にヘッドボードへ投げ捨てる。背中を丸めると髪が枕でくしゃりと乱れて、だけどそんな事を気にする余裕もなかった。
「あー、嫌われたなこれ。出会い厨だと思われたかな」
 仮に仲良くなれていたとしても少し急いてしまったようだが、インターネットの世界ではきっとよくあることだろう。そのままフェードアウトが濃厚だろうけど、俺は会ったこともない風刃さんがなぜか忘れられず、その背後にあの言葉が浮かんだ。
 海のように深い、俺の世界へ続く言葉。
 大きく息を吸って瞑想する。扉を開き、踏み出すために、穏やかにそれを唱える。
「……メイス」
 その時携帯のバイブレーションが鳴った。はっとして手に取ると懐かしい名前があり、見るなりベッドから飛び起きてしまう。
「えっ! 風刃さん…?」
『よう雷刃、悪いな。久しぶり。ようやく準備が整ったんだ、ぜひ会おう。』
「うっわ! まじかよ!」
 俺は両手で携帯を天に掲げ、思わず叫んでしまった。リビングから母の叱る声がする。
 どうしよう、なんて返信しよう。まずはお久しぶりですと挨拶をして、それから何度もメッセージを送ってしまったことをお詫びして、連絡がきて嬉しいと伝えて、だめだこれじゃ長文になってしまう。女の子に送る時だってこんなに悩んだことはなかった。風刃さんは大したことと思わなくても俺にとっては一大事で、一時間ほど悩んだ挙句、震える手でなんとか送信ボタンを押した。
 それからはとんとん拍子だった。たまたま週末に俺の地元の近くに用事があるらしく、その日の午後に待ち合わせることにした。
「……よ、かったぁー」
 夢じゃなかった。滅多に使わない脳味噌を酷使して、へとへとになってそのまま床に雪崩れ込む。大の字になると冷たいフローリングが気持ちよくて、床に反響した心臓の音が、自分の体温をさらに際立たせた。
 約束の日は冷えた空気のせいで目覚ましよりも早く目が覚めた。東向きの自室の窓は未だ朝日を得ておらず、カーテンを開けると山の向こうがうっすら焼けている。寝起きのぼうっとした頭にその色はとても刺激的で、燃えるような赤に興奮を隠せない。
 こんなに早く起きたのは小学校の運動会以来かもしれない。あくびをしながら居間へ向かうと母が面食らって、今日運動会だっけ? と恐る恐る言う。
「ちげぇよ、体育祭は秋」
「いつやるかはわかってるんだ」
 母はケタケタ笑いながらも俺にコーヒーを淹れてくれ、湯気の立つそれにミルクと砂糖を適当に入れてかき混ぜる。
 底に沈んだ砂糖の粒がスプーンと摩擦し、ざらついた抵抗が陶器を鳴らす。それらが音を立てて溶けていくのを指先の小さなところで感じた。ふうふうと冷ましながら口に含むと、独特な香りと相反する甘さに目が醒める。一気に飲み干した俺を見て、母は頬杖をつきながら呆れた顔をした。
「コーヒーは一気飲みするもんじゃないぞ」
「喉乾いてたんだよ」
「今日街行くんだっけ? 何時に帰るか分かったらメールしなさいね」
「うん」
 唇に残ったコーヒーの苦味を舐めながらトーストを焼きにキッチンへ行く。おかわりの声にあくびを返して、トースターが動く間に熱いポットの中身をそのまま継ぎ足す。口の広い我が家のポットからマグに移すのは割と難儀で、こぼさないよう注意しながら一連の作業をこなす。無事を確認してふうとため息をつくと、暖かな雨の降る、夜の間際の夕焼けの香りがした。
「ほい」
「お、あんがとー。ねえ今日誰と遊びに行くの?」
「母さんの知らない子だよ、友達」
「へえー、彼女?」
「ちげーわ」
 二杯目をブラックでちびちびしながらじゃれつく母にぞんざいな返事をして、さく、と軽やかなきつね色を口へ運ぶ。母は俺の一蹴を物ともせず、音量を小さくしたままのテレビへぼんやりと視線を移す。両手の中のマグから上がる湯気を口元で感じながら、独り言のように言う。
「そっかゲーラももうそんな歳かー。昔はいっつも……あ、アリエス起きたの?」
 昔はいつも、何?
 トーストをくわえたまま振り返る。しかし寝起きでぐずつく妹をあやしに行った母の、次の言葉は引き出すことができなかった。ご飯を食べたら散歩に行っておいで。その母の言葉に妹は瞬時に目が覚めて、早く早くと俺を急かす。俺は仕方なしに妹の分のトーストを焼きに行く。
 東の山々から昇る日光が、朝の透明な冷気に凍える体をじんわりと温めてくれる。二人でその中へ足を踏み入れ、深呼吸で肺に入れるとその温度差が心地よく痛い。西の地平線の向こうでは田畑が薄く白んで、遠くの線路は朝もやで霞んでいた。
 いつもの朝と何かが違う、大きな始まりの気配を感じる。
 それは紛れもなく風刃さんと会えるからなんだけど、どうしてか緊張以上にわくわくして、満を持してというか、ある種の達成感で胸がきゅんとした。
 手を繋いで隣を歩く妹は黄金色の太陽を浴びながら愉快そうにこちらを見上げる。気持ちの良い空気に上機嫌で、今にもスキップしそうな軽やかさだ。
「おにぃー、どちたの? へんなかおー!」
「えー? なんでだよ! お前も変な顔にしてやろうかー!」
 妹の柔らかな頰を両手で包んでくすぐると、きゃっきゃと叫んで笑っている。彼女が俺に向ける視線は生まれた時から何ひとつ変わらない。ガーネットの奥深い瞳の色は希望に満ちていて、俺は何度もそれに救われて来た。君はメイスじゃないけど、俺の愛しい妹だ。俺はその頰を優しく潰したまま、額を寄せる。
「おにぃ今日街に行ってくっから、帰り遅いかも」
「えっいいなー! どこいくの?」
「どこだろうなー、友達が行きたいところあんだって。おにぃ大事な友達に会うんだー、いいだろ?」
 いいないいなと飛び跳ねる彼女の細い髪が綿毛のようにふわふわと揺れ、抑えきれない俺の喜びを代わりに表してくれていた。君もいつか、俺の今のこんな気持ちをその人生で得ることがあるだろうか。きっとそうだといい。改めて抱きしめると、おにぃはあったかいねぇ、と優しい声が降ってきた。
 よく晴れた午後、街中は人にあふれ忙しない。
 変な格好じゃないかな、シャワーちゃんと入ってきたし、髪型も大丈夫なはず。
 いつも制服かユニフォームなので私服の数が少なくて悩んだ。なんだっていいけどなんでもは良くない。だって今日は風刃さんと会うんだから。
 交差点は青信号のたびに雑踏がゆらゆらと流れ、窓ガラスに映る自分を見て最終確認をする。待ち合わせスポットは俺の他にも何人も、時計を見たり周囲を見渡したり、それぞれの相手を探してる。
 多分大丈夫、もうそろそろだ。浮ついた足を懸命に落ち着かせ、その緊張がピークに達した頃、どこか聞き慣れた声が後ろから聞こえた。
「よう、はじめましてだな、相棒」
 その声はピリッと俺を切なくして、雑踏も信号機のチャイムも、途端に何も聞こえなくなった。声の主はすぐにわかって、もうすでに彼以外見えない。
 長い髪で右目を隠した、初めて会う懐かしい姿。それは紛れもなく、俺のオレンジの片割れだった。

金平糖

二次創作のかけら

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