四、眠らない竜
夢の中にはメイスが出て来た。
ピンク色のタンクトップ。長い髪を風に預け、隣でバイクを乗り回す。
ところどころにラインが入った、俺はバギー型、メイスはオフロード型の黒い車体。やけに体に馴染むそれで、狭い山道を額が丸出しになるのも厭わずに颯爽と駆け登る。
山々はあおく、降り注ぐ木漏れ日を浴びながらぐんぐん上昇すると、カーブの向こうから朝日が射すのが見える。眩しくて思わず目を細めると、ふわ、と気が遠くなった。
隣で同じように全身で風を受け、同じように細められた聡明な瞳。自然と視線がぶつかりあい、普段は髪に隠れている右目を見る。そこで初めて、それが対の目よりももっと色濃いことに気づいた。
深い青色は俺を射るように見つめ、それが柔らかく弓形になると、前に向き直り一点を見つめる。視線の先にあるのはきっと、俺たちの桃源郷。
扉が、俺の扉が勢いよく開かれた。
もっとやれる、もっと走れる。突如噴き出した闘争本能と共にそんな声が聞こえた。前傾姿勢、流れるガードレール、急カーブでのスピン。腕の見せ所だと言わんばかりにみるみるスピードを上げ、たったひとり走りだす。道幅が狭まるとタイヤは激しい摩擦音を上げて土をかすめ、そのままてっぺんまで、燃え上がるように駆け抜ける。
わかった、行ける、まだやれる! 俺は最強だ、俺たちは最強だ!
喉が嗄れるほど、鼓膜が破れるほどに叫び大きく息を吸う。
突如視界が開け、鮮やかな景色が目の前にあふれ出した。息が止まる。心臓がどきんと高鳴る。三百六十度に広がる雄大な空。めいっぱいに光を反射し、ほとんど透明なブルーは淀みなく明らかで、純度の高さにうち震える。萌える木々を眼下に、脱力した体を包み込む森のざわめきに陶酔した。
ロータリーをぐるぐる回り、惰性で前進するバギーに立ち上がり両手を広げる。ジャケットが風でめくれて冷たい朝露が腹を濡らす。太陽の眩しさに皮膚を焼かれ、まぶたの裏に流れる血潮に、ため息が出る。
ゆっくり胸を張ると、新しく冷たい空気が肺を洗う。ぐるりと渦を巻いて俺の中を循環し、てらいの無い白い光を全身でうけた。
──メイス、早く来てよ。早く一緒にこの景色を見たい。
彼が指し示した俺たちの空。いろんなものにぶつかり、へし折れても、最後に必ずたどり着く真っ直ぐな光。それにそっと左手を伸ばす。あまりに遠い、けどすぐ近くにある。薬指にはめた指輪が逆光でくっきりと形をなし、シルバーがかすかに澄み切った色を映し出す。日焼けして節くれた自分の手を、初めてきれいだと思った。
遠くに一機のヘリコプターが飛んでいた。豆粒よりも小さく、けど力強く羽音を震わせる。真っ直ぐに前を見据えるそれは北へ迷いなく進み、力強く俺たちを導く。
振り返るとちょうどメイスはすでに俺に追いついていて、「やるじゃないか」って褒めてくれる。体の芯からこみあげた喜びにまた、パチパチと燃え上がる。
果てしない道のりだった。けれどまだだ。俺たちはこっからだ。
俺はメイスに何か言った。そして彼の返事を待った。彼から返事はなく、突然視界は遮られた。
俺は一瞬宙に舞って、一気に暗闇に落ちた。
覚醒しても辺りは夜のままだった。
天井は不安になるくらい静かで、防音壁の効果に感心する。ごろりと寝返りを打つと鏡が壁一面に貼り付けてあるのに気付き、寝起きの自分と目があう。思ったよりよく眠れた。心持ちすっきりとして、けれどもう少し、あの夢を見ていたかった。
ニ、三度息を吸って、唸り声をあげて伸びをする。乾いた喉を潤すためにと体を起こすと、後ろから腕を回したメイスが釣れた。重てぇよと呟いてみるが聞こえていないようだ。何故か半分脱げていたシャツに袖を通して時計を見る。チェックアウトは確か十時だったが、すでに九時半を回っていた。
「やっべえメイス、こんな時間! ちょっ、だーもう離せって!」
メイスは腹にへばりついたままずるりと水揚げされる。くそ、こいつ腕っ節あるな。体をねじって引き離すとマットレスにポトリと落ちた。構わず全開にしたカーテンから差した日光に、つり目の間のしわが深くなる。俺も眩しさに気が遠くなりそうになるのを堪えて、腕をまくる。
「おい、早く出るぞ」
「んん…まぶじぃ……」
「早く、チェックアウト!」
「んー」
バタバタと俺が身支度をしている間、メイスはベッドの上でぼうっとあぐらをかき、寝癖で膨らんだ髪を揺らしている。船を漕ぎながら俺を呼ぶ細い声を無視し、顔を洗って、髪はそのまま手櫛でざくざく梳かしていく。ワックス、忘れた。サイドは少し水で濡らして摘みあげてみるがキープするにはやはり無理があった。適当に整えてからベッドへ振り返り、未だ夢の入り口をふわふわしているメイスを大声で急かす。
「もー起きろー!」
「んん、朝……弱くって」
「へらへらすんなって」
ピシリとつむじに向かってチョップを食らわし、使い捨ての櫛で後ろから髪を梳かしてやる。重みのある密度の高い髪は、掬い上げると太陽光で天使の輪がくっきりと浮かび、俺は癖のないそれに一息に髪筋を引いていく。こんなに長いのに全く痛んでない。
鏡に向かって首を座らせても手を離すとすぐにカクンと上を向き、彼はへらっと笑って俺を仰ぎ見た。だらけきって緩んだ頰。眉が少し下がり、ほんの少し刻まれた笑い皺が、緊張感のなさを物語る。
「んー、ふふ、おはようゲーラ」
「今かよ。ハイハイおはよおはよ」
メイスは俺を眠そうに見たまま、俺が乱雑に櫛を入れるたび、頭が上や下へされるがままだ。乱暴にしすぎたかと思い労るとくすぐったそうに体を捩る。猫のようにもぞもぞと動いて、黙ってろと言ってもまったく聞かない。
「上手いな、慣れてんの?」
「妹がいるからやらされんだよ」
「へぇー、いくつ?」
「幼稚園」
「あーなるほどね」
どうりで手つきが優しいわけだと平然と褒められる。もう、そんなこと言ってる暇ないんだってば。
「ほれ、出来たから着替えろ」
背中をポンと叩き、改めて自分の準備にかかる。もたもたズボンを履くメイスの荷物を片付け、ヘッドボードの上に並べておいた指輪をそれぞれはめる。お日様が完全に昇った街を、空っぽの胃を満たすために歩き出した。
「来月も同じハコでライブするんだ。また来てよ」
とりあえず腹が減った。俺の一声でホテルの近くのちいさなチェーン店に入り、窓際のちいさなテーブルにつく。向かいのビルから反射した日光がちょうど白い天板に当たり眩しい。モーニングコーヒーでようやく覚醒したメイスは、先程と打って変わってキリッとした目つきで俺に向かい合う。ホテルでの無防備な一面とは比べものにならなくて、その変貌ぶりに笑ってしまう。
「まじで? 売れっ子だなー」
「違うよリーダーが顔広いだけ」
モーニングのピザトーストを口いっぱいに頬張る。指についた酸味のあるトマトソースをぺろりと舐めると、セットのアイスカフェオレの氷がカランと崩れた。
「やっぱ夜だよなァ、ライブ」
「あぁ、昨日はごめん、泊まらせちまって。もうしないからまた絶対来てくれ」
手にチケットを押し込められて、断るつもりなんてないのに懇願される。手のひらサイズの細長いその端に、メイスのバンド名が小さく書かれている。
「もちろん、行く」
チケットに視線を置き、物足りない朝食におかわりをしようか悩みながら返事をすると、メイスは首をこてんと傾げて、ありがと、と言った。
「そうそう、さっきメイスの夢見たんだ。外国の山っぽい所でバイク乗ってツーリングして、すげー気持ちよかった」
「へぇ、いいな外国、行きてぇな」
メイスは明るい声で、また一口コーヒーをすする。ソーサーへ戻すときもさほど音が立つことはなく、俺もそのまま話し続ける。
「な。修学旅行は外国だったけど風邪ひいて行けなかった」
「最悪じゃん! タイミング悪すぎ」
「そういう大事な時に限って風邪引くんだよなァ俺」
サービスの冷水を飲みながら呟くとメイスは悲しげな顔で相槌を打ってくれる。
「ゲーラ細いから。免疫弱そ」
「お前も似たようなもんだろ? すげー食べて寝て動いてんだけどなー」
「アメフトだっけ。怪我とかしねぇの」
「めっちゃする。でもほとんど擦り傷とかで、すぐ治るからそんな気にしてねぇよ」
「ふぅん…でも、手も冷てぇしな」
メイスは右手で頬杖をつき、左手はテーブルに置いた俺の手を上から包んだ。す、と俺の顔色を伺い、昨日よりも高い温度が手の甲にじんわりと伝わる。
突然のことにリアクションを取れず固まっていると、指先が手の甲から手首へゆっくりと這う。導火線の熱はちりちりと移動して、気づいた時にはもう遅い。心臓を押さえようと動かした反対の手がテーブルにぶつかり、またコップの氷が音を立てる。
目が泳いでしまう俺にメイスは涼しげに笑いかける。他の席の会話が後ろの方から聞こえる。彼は獲物を捕らえた蛇のように俺をじっと見つめていて、ひくりと口角を上げてやっとのことで声を出す。
「そ、そう、俺低体温なんだ、よね」
「そうか、俺と反対だな」
指は手のひらの方へ進み、脈を取られそうになって即座に手を引っ込めると、背もたれに派手にぶつけた。
「な……なにすんだよ」
「悪い、嫌だった?」
彼は分かりやすく眉尻を下げる。しかし俺の反応が楽しいらしく、隠しきれずに口元が笑っている。からかわれている事がありありとわかるのに、嫌な気持ちはしなかった。
別にいいけど、とそっぽを向くと、彼は満足そうに、行こうかと立ち上がる。
メイスはずるい、可愛くてずるい。心の中でため息をつき、露を滴らせたままのグラスの中身を飲み干し、俺も勢いよく立ち上がった。
「俺さ、お前に恋してるんだ」
駅は朝のラッシュも終わり人はまばら。改札の前で、メイスは唐突に言った。
日常の続きみたいな気軽さで差し出されたその言葉は俺の心の底にすとんと入り込み、その意味を、つい、素直に受け取ってしまう。
「それじゃ、またな」
「へっ?」
雑踏の向こうに消えた彼から目が離せなくて通行人にぶつかる。すみません、と上の空でこたえて、またメイスの言葉を反芻した。
ひとり、電車へ乗り込む。昨日の暖かな幸せが嘘みたいだ。今まで隣にいた片割れの気配はまだ体のすぐ近くにかすかに残っていて、それを纏ったまま現実に戻るのはなんて虚しいんだろうと窓ガラスに頭を打つ。没入したまま電車は進み、流れる景色をもう覚えてはいない。一時間半かけて、自宅の最寄駅へ着いた。
帰宅すると真っ先に母の雷が落ちた。言い訳をする暇もなく懇々と続く説教を、流れる𠮟咤を俺は黙って聞いていた。脳裏では空想と現実両方のメイスが互いを補完しながら俺に話しかけてくる。腹の底に沈むマシュマロみたいな甘い膨満感。おぼろげな意識の中でごめんなさい、と言うと、母はため息をつき自室へ戻って行った。
「おにぃ、これ、これ」
母がいなくなると隠れて見ていた妹がこっそりやってきた。ちいさな飴玉を差し出し、いいの? と聞くと何度も大きく頷く。包みを開くと丸い鮮やかな黄色から、ふわりとレモンの香りが漂う。人工の香料だとわかっているが、昔から慣れ親しんだそれは何となく安心してしまう香りだった。彼女はその手を今度は俺の耳元に当てて囁く。
「美味しいよ、元気出して?」
それは口に含むと甘酸っぱくて、しゅわ、と軽やかに溶けていった。
「美味しい、ありがとう」
優しく髪を撫でると照れたように笑って、首に抱きついてくる。俺はメイスと別れてから初めて笑顔を取り戻した。
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