五、あおいりんご
それからあっという間に時は流れて、メイスのライブの日はやってきた。
初夏の風は生ぬるく頰を舐めつけ、アスファルトからの照り返しで全身が熱い。まだ六月だからとジャケットなんか着てくるんじゃなかった。張り付く襟元を煽ぎながら早足で改札を出る。街路樹の囁きが遠くに聞こえ、ざわざわと語りかけるような、けど何も聞こえないような、メイスと初めて会った時のひとりの時間をそこに感じた。
二回目の街にメイスはもう来ていた。以前と同じ黒いギターケースとヘッドフォン。遠くにいてもすぐわかるシルエットは俺をすぐに見つけ出し、振られた左手の薬指に光るものを見て、ぴたりと足が止まった。
「よぉ、ゲーラ」
「おはよー、悪りぃ俺、指輪忘れちゃった……」
別に約束してたわけじゃない。だけどメイスにとってはふたりで身に付けることが大事なんだろうと思っていたから、失念したままなことが申し訳なく思われた。メイスは初めきょとんとしていたが、すぐに理解したようだ。
「ん? あぁ、いいよそんな。お前のこと縛り付けたいわけじゃないから」
予想外にさらりと言われて安堵とともに物足りなさを感じ、だけどそれは俺の我儘だと思ってすぐに意識の向こうへやった。
ライブハウスには今日もドラさんが来ていた。知り合いがいるというのは無条件に安心するもので、全開で振られた左手に笑顔で返す。メイスはスタンバイのためにもう楽屋へ行くという。
「頑張れよ」
「ああ、見ててくれよ、ゲーラ」
名残惜しそうに何度も振り返って行くメイスに手を振り、ドラさんについて行く。時間があるからと用意された椅子に並んで座ると、早速マシンガントークが炸裂した。
「元気だったー? アメフト頑張ってる? 日焼けしたねーもう暑いよねー! この辺のお店ころっころ変わるからアイス買いたいのに迷っちゃってさ、でも美味しい所みっけたから今度みんなで買いに行こうねぇ」
「はい、おかげさまで。ありがとうございます」
ドラさんはそれならよかったと呟いてから突然細長い足を投げ出し、またいくつか俺に質問をする。二、三個にひとつのペースで返事をすると、急に神妙な顔つきで綺麗にパールの乗せられた爪を引っかきだした。
「ねぇゲーラ君さー、学校どう?」
「俺ですか? まぁまぁ楽しいです」
不思議がっていると彼女は遠慮がちに口を開く。
「そっかー、そうだよねぇ……。あいつのこと聞いた? あっまぁ、知らないんなら別にいいんだけどー」
いいと言っておきながら、ドラさんは前髪をいじったり、かかとを床に打ちつけたりして落ち着かず、舞台から俺に目線を移すと、からりとした笑いを取り繕う。
「なんかねーあいつ、学校行ってるっちゃ行ってるんだけど、あんまり楽しくはないみたいで。まぁ相手がゲーラ君でも、ね。いやー、まぁまぁ、ほら、ね!」
ドラさんはタバコを一本取り出して、左手でくるくる回した後にまたしまった。どうぞと言うと、今の時間禁煙なのと笑った。その笑顔は一瞬で煙に巻かれたように消え、一点を見つめる。
「メイスさ、君のこと昔から好きなの。子供の頃はさぁ、言っていいことと悪いことわかんないから、周りに君の事いろいろ言ってて、それでちょっといじめっていうか」
「え……」
「あ、いや、ちょこーっとだけね、うん。まぁ私から見たらガキ同士くだらねーって思ったんだけど。でもま、キツイよね、本人。中学卒業するあたりから吹っ切れたみたいだけどー、それからは絵に描いたような不良よ! 家出してー私んち転がり込んできてー補導されてーみたいな! 彼氏できたって言ってきた時はさすがにビビったけど! あは!」
「かれし……」
指折り数えて笑うドラさんはさすがにまずいと思ったのか、慌てたように釈明する。
「ああー彼氏はすぐ別れたから! 心配しないで! 後腐れなし! でもまぁー言わないよね、好きな人だもん。心配かけたり嫌われたくないじゃん? 君はそんなふうには思わないだろうけど」
あ、始まるよ。そう言われて立ち上がり、煌々と照らされる舞台を見る。
メイスは俺の知らない所でどうやって生きていただろう。何も考えず俺は優しい彼に甘えて、飄々とした髪にまとわりつく憂いを何も知らない。
気づけば観客の入場はほとんど終わって、密度の高いあの熱気が目の前にあった。
ひと月前と同じステージ、メンバーの名前を叫ぶ観客。だけど演出は少し違っていて、すでに明るい舞台に向かって四人はわらわらと定位置についた。挨拶をするや否や、ボーカルの人がメイスを見て言う。
「今日の一曲目はー、なんと風刃が! 歌いまーす! イエイ!」
観客は歓声をあげる。メイスは下手から中央のマイクの前に移動し、エレキギターを構え直して真っ直ぐ前を見据える。シグナル・レッドの燃える炎を模したそれは彼の白い指によく映え、青いピックが取られると、今か今かと音が爆ぜるのを待ち構えている。
そんなギターとは対照的にメイスは心穏やかに、ふわりとボディの輪郭を撫でてその猛りを鎮める。口元が緩く弧を描いたかと思うと、聞き慣れた低い声がスタンドマイクを介して膨張し、たくさんのスピーカーからたった一言、発せられた。
「俺が作った曲です、『レイリー』」
閉じた一重まぶた、月夜に濡れたロイヤルブルー。彼は大きく息を吸い少しだけ胸を張る。細い顎を引き、夢から醒めるようにゆっくりと天井の向こうの夜空を見上げる。これから生み出される愛おしい音符や駆けぬける絶頂が、彼にはもう見えているらしかった。
一呼吸のあと放たれるピチカート。耳をつんざく閃光が流星のように、細やかな紡錘形を保ち俺の真横を通り過ぎる。とっさに目で追うがあまりに速い。見失ったと思っていると眼前では、いつの間にかその光源が俺をじっと見つめていた。
驚いて目を見開く。その細面がくっと片頬を上げる。俺の頭に優しく触れ、ビロードの翅を翻しながら頭上を通り過ぎる。
ドラムが重々しく銃声と重なり、時たま現れる高音域がキラキラと火の粉になって天井へ散りばめられた。
星を巡るその足音に乗り、惑溺感が背筋にぞくぞくとほとばしる。喉の奥で声にならない声を上げ、釘付けになってしまう。
湧き起こる興奮をもっと寄越せとギターは嘶き、振り乱されたメイスの髪と一緒になってその開放感に酔っている。自らを突き動かす欲望をぶちまけながら、誘われるように共鳴する。楽しい、嬉しい、最高だ、そんなありきたりだけど偽りない気持ちを真っ直ぐに表現して、ギターはメイスの手をしっかりと握りしめる。
スタンドマイクはハウリングして、泣きそうな彼の声は俺の鼓膜に爪痕を残してく。
薄暗く冷たい繭の中からようやく自分の光を見つけた。でもその光はずっとそばに居たような気さえした。追い求めた残像、虚しい日々、心の中に大切に仕舞い込んで、両手いっぱいに抱えた光の欠片は幸せという二文字では語り尽くせないほど様々な感情を抱いて膨れ上がる。それはスピードを上げたメイスの声に乗って、晴れた日のスコールのように会場に燦燦と降り注いだ。
ギターの抑揚とは別の、メイスの視線の先。
陽炎のような熱い眼差しを、今、彼は夢中で晒している。上下する喉が俺と同じ形をしてる。歯を食いしばり、しとどになった白い首筋がはくはくと伸縮する。俺はもう声を出せないのに、彼は大声で叫んでいる。呼吸の時間も惜しいとばかりに、桎梏へ牙を剥く。
気を抜くとせり上がる射精感にチカチカと目眩がする。腹の底になにかがずくりと沈んでいき、汗だくで魂の燃えるままに叫ぶその声を、他の人に聞かせたくないような欲が蔓になって俺の周りに纏わり付く。
運命とは何かという疑問がまた、俺の目の前に現れた。
蝶番を軋ませて啼いた扉の向こう。その玉座に大股を開いて鎮座し、訳知り顔で頬杖をつく圧倒的な光。俺にひたりと笑いかけるそれは、優雅で森厳なデトロイトの声だった。夢心地のまま吸い寄せられ、そこにメイスの歌声が、鋭い慧眼と共に心に風を吹かせる。
──『君となら越えられる。あの青の向こうまで』
どうしよう。
俺、メイスが好きだ。
運命でも、そうじゃなくてもいい。ずっと昔から知っている空想のメイス。実際の彼は全く違ったけれど、決して戸惑うことはなかった。彼のことをこんなに好きなんだ。やっと会えた俺の海。その中に沈んで息も止まるほどに繋がり、温かい呼吸を通わせていたい。
「……メイス」
デトロイトが扉の中に誘ってくる。こっちだ、行こうと指先で手招きし、はびこる蔓がどんどん成長する。俺は踏みとどまる。そっちには行きたくない。こんな気持ち初めてで、どうしたらいいかわからない。怖い、けれど抗えない。足が勝手に前へ進んでしまう。
ステージの上、メイスは迷いなく俺を見つける。俺は息を飲む。彼は眩しそうに笑う。
「あ、あ……っ」
たおやかに射られ、ばっくりと開いた割れ目から染み出したものが溢れないように胸を強く抑えた。彼はまた、音楽の世界へ没頭する。俺の中にじくじくとに沈殿して、軽やかに駆けていく。遠のく意識の向こうから、かすかに彼の声が聞こえる。
世界は澄み渡り、いろんな音がする。だけどその中心はメイスだけだ。
彼の全部が、欲しくなった。
同時にデトロイトは暗い微笑みを浮かべながら消え、扉も静かに閉じられた。
「ゲーラ君?」
呼ばれてようやく覚醒した。ドラさんが心配そうな顔で俺にハンカチを差し出している。
「え、えっ? あ」
「具合悪い?」
「あっ、すいません……うわー恥っず……」
知らないうちに涙が出ていた。ドラさんは深入りせずに、ステージに視線を移してくれた。ライブは次のバンドの番になっていて、知らない人たちが観客と一緒にコールレスポンスをしていた。
「メイスかっこよかったねー、楽屋にいるけど行く?」
「あ……はい」
踏み出そうとして、足が棒のように動かなくなっていることに気づいた。やっぱりもう少し見てます、と告げると、彼女はオッケーと軽く言って行ってしまった。
受け取ったハンカチを目頭に当てると、涙腺が刺激されたのか頰が強張る。ふわふわとした余韻を体の中心に残したまま、しゃくりあげそうになるのを両手で抑えて、必死で口を結んだ。
知られてしまったんだ。俺だけのものだと思ってたメイスの一面をいとも簡単に、赤の他人に。淡々とした語り口も、ニヒルな笑顔も、俺のことを優しく見つめる瞳も、俺以外の人が知ってしまった。それだけの力があの歌にはあった。それがとても悔しかった。爆音で響く他人のロックを聴いて、ここから消えてしまいたいとさえ思った。
少し涙が落ち着いた頃メイスがやってきた。呼ばれて跳ねた胸を手でさすってなだめ、目の腫れを隠しながらハンカチを握る。
「ゲーラ! ドラに聞いた、どうした?」
メイスは顔をしかめて肩を掴む。衝撃で少し足がふらつき、ずっと感じていたこの体温も、知ってるのは俺だけじゃないんだと思い知らされた気がして胸が痛い。泣いてること、知ってたのか。仕方なくしわくちゃになったハンカチを伸ばし出来る限りの声を張る。
「あー、うん。メイスかっこよかったなーって。お疲れ様。ドラさんにハンカチ返さなきゃ。喉乾いたな」
「…そっか、ありがとな」
順番が終わったら帰っていいと言われていたから、ふたりでネオン街を抜け夜の帳の内側へと入る。あえて大通りを避けると、それだけで歓楽街の華やかさは失われひっそりと暗い。駅まで後少し。生ぬるい向かい風を感じながら俺は後ろ髪を引かれる思いでいた。
メイスはずっと上機嫌で、俺ににこにこと話しかける。ライブはとても楽しかったし、メイスは大勢から喝采を浴びてキラキラしてた。前回あんなだったから今日は真っ直ぐ帰るつもりだったのに、ずっしりと重たい、暗い気持ちを解消する術を俺は知らなくて、だから少しだけズルいことを考えた。
喉が乾く。一言めが上手く出せなくて、結局無言のまま立ち止まった。メイスはマンホールを見つめたまま神妙な面持ちになっている俺に振り返り、怪訝そうに足を止める。
「……俺ちょっと、具合悪い」
「風邪か?」
遊びすぎたかなと額にメイスの手が添えられると指輪が当たったところだけひんやりした。体温の高いその手で測ったってあてになるわけないのにと、彼の顔を一瞥する。
「熱いな、電車何時だっけ?」
メイスはそのまま携帯で時刻表を調べだす。こんな時だけ鈍感なんだ。俺の黒い気持ちも嫌だけど、彼のこのもどかしさも憎らしい。波打った脈動は瞳まで震わせて、緊張がばれてしまいそうだ。しかし、メイスは気づかない。
「あと十分で来るな、急げるか?」
「ど……」
「ど?」
街灯の逆光でメイスの表情はよく見えない。けどきっと、眉根を下げて心配そうにしてる。逆に俺の顔は良く見えるんだろうか。赤くなってないか、泣きそうになってないか。逡巡し混乱する頭で絞り出すように言葉を発すると、少しだけ掠れて視線を逸らした。
「どっかで…泊ま……」
「えっ」
彼の驚いた声に我に返ってしまい、恥ずかしさで直視できない。心の中で今日は離れたくないと何度か唱えた。額に当てられた手が離れ、それを惜しいと思えてしまうあたりもう重症なんだろう。離れた手の行方を横目で追う。沈黙が痛い。きゅっと目を瞑り、帰りたくないともう一度唱えた。メイスの手が伸びて俺を胸に抱き、耳元で優しく言った。
「今日は帰ろう、また、会おうな」
当たり前だ、俺たちはまだ子供なんだから。窘められた欲を小さな箱に閉じ込めると、心の中に小さな結晶が生まれた。真っ白なそれは少しずつ大きくなっていった。
帰り道は永遠のように長い。電車が駅で停止するたびに降りようか、戻ろうかと考えた。街を過ぎて村へ入り、また街を通り過ぎる。俺たちの距離がこんなに遠いなんて一ヶ月前は思いもしなくて、時折窓に映る自分の顔が生気を失っていて、鼻で笑った。
「また」がいつなのか、早く結論を出したくて仕方がなかった。
メイスの体温は高くて俺のは低い。寄り添って混じり合ってひとつになって、その中でずっと揺蕩っていたかった。だけどそれは叶わない。俺と彼の大きな隔たりは、もしかしたら運命でさえ、破ることはできないのかも知れない。
最寄駅、街灯のない畦道は街とは違い涼しい風が吹く。南の空に浮かぶ半月は低い位置にぽっかりと浮かび、もう半分は輪郭だけを残して影になっている。
俺の片割れは俺をどうしたいんだろう、俺はあの片割れをどうしたいんだろう。興奮の最中沸き起こった衝動は本心なんだろうか。漠然とした所有欲が募っていくのがわかって情けないなと前を向き、玄関の戸を開けた。
「おにぃ、おかえりー」
「アリエス、ただいま……」
「あらおかえり、ちゃんと帰ってこれたね」
家へ着くと母も妹もすでに寝る準備ができて、テーブルでお茶を飲んでいた。夕飯をひとりで食べる向かい側で、妹が頬杖をついて、にこにことこちらを見ている。肩まで真っ直ぐに伸びた細い髪がしゃら、と揺れて、俺とは全然違ったものに見える。
「どうした?」
「あのね、あした、おたんじょうびなの」
「あっ、そうだねー、おめでとう」
「ああー! まだだめ! 早い! あした!」
テーブルをバシバシ叩いて拒否をされる。笑いながら謝ると彼女は続けてこういった。
「んもー、これだからおにぃは。かのじょできないよ?」
「えっなんだよそれ」
聞くと同じクラスの男の子から告白され、付き合うことになったという。
胸を張って自慢げに話す妹と、イケメンよなどと面白がってウインクまでする母と。俺がいない間にそんなことになっていたなんて知る由もなく、明日の誕生日会にその彼も招待すると聞いてますますショックを受けた。
嘘だろ、大事な娘の一大事に母はなんと警戒心の薄いことか。食後のプリンの一口を妹に取られ俺はさらに放心する。頰が落ちないように両手で抑えながら母の元へ走る小さな天使は、もう俺だけの天使ではないのだ。
「さ、お兄ちゃんもご飯食べたし、アリエスは寝ようね」
はぁいと素直に返事をして二人は寝室へ行ってしまった。俺も部屋に戻ると携帯のディスプレイにはメイスの名前がポンと浮かぶ。
『家、着いたか?』
『お疲れ、着いた』
『よかった、今日はありがとうな。ゆっくり休んでくれよ、おやすみ』
メイスはさっきの俺の我儘を叱ってくれない、ふざけてもくれない。俺はすぐにおやすみとだけ返信をして、携帯をベッドへ投げ捨てて自分も盛大にダイブした。ため息をつくとベッドごと泥に沈んでしまいそうな錯覚を得て、はたと正気に戻る。
机の上にはメイスにもらった指輪がある。小さい頃もらったオルゴールの小箱。その中で小さな男の子が伸ばした腕に、無くさないように引っ掛けてあった。蓋をあけるとコロコロとメロディにもならない音が鳴り、男の子が少し回転したところで、指輪を取り出す。
霊芝雲文の所々に走る稲妻模様、丸く型取る雲の中の棘を指でなぞるとちくりと痛み、ベッドに横になりながらそれを蛍光灯にあて、銀色の反射を見る。薬指にはめてみるとやけにしっくり来て、浅黒い節くれた指がほんの少し大人っぽくなる。
「……メイス」
ついこぼれたそれは彼の名前ではなく、彼を見つける前のただの呪文だった気がする。この名前を呟けばなぜか心が落ち着いて、このもやもやした翳りも、彼を捕まえておきたい支配欲も、綺麗に消してくれるものだと無意識に信じていた。けれどもうぱんぱんに膨らんだ気持ちを抑えることはできず、彼を余計に思い出してしまって切ない。
「恋って、……なんだよ」
携帯の通知音が鳴った。誰からか察しがついて無視をした。数分後にもう一度鳴ったそれを、今度はその場から奪うように握る。指輪とプラスチックがぶつかってカチンと乾いた音を立て、ディスプレイのロックを解除するとやはりメイスからだった。
『風刃さんからメッセージです』
『受信 メイス』
なぜか分けて寄越されたメールには音楽データが添付されていて、本文には『今日の曲の音源。やるよ。』とある。もう片方はメールで音源を送ったと。どちらも短い文章で、ベッドの上で再生すると、エフェクトがかったメイスの歌声がイヤホンから流れた。ライブ会場でついさっきまで聞いていたあの声。俺だけのメイスが俺の知らない音に乗って声を上げている。とても綺麗で素直にかっこいいなと思った。だけど俺は知らない間に、この声を独り占めしたくて、それが出来ないことに焦ってあんなことを言ったんだ。
音楽が好きなメイスはきっとプロになるだろう。もっともっとたくさんの人が、メイスの声を愛するようになる。そのうち俺にばかり構ってる訳にもいかなくなってしまうのに、俺だけの隣にいて欲しいと無責任に思ってしまう。
「メイス、好き……っうわ、……嘘だろ」
携帯ごと両手で顔を覆って、俺はごろごろと転がりながらやり場のない気持ちを発散しようとした。ベッドの端にサメのぬいぐるみが落ちていることに気づき、何でお前がこんなとこにいるんだよ! と青い背中をぎゅうっと抱きしめる。喉仏のあたりに酸味が押し寄せて、だんだんと目の上まで上がってくる。
「うわっ、だめだ、落ち着けこれは、っあー‼︎」
顔が熱い。血液が足りない。心臓が壊れそうなほど高鳴るのを黙って聞くしかなくて、頭が割れそうになる。大の字になって無理やり息を吸う。昂ったそれを消化することもできず、時に大きく、時に切なく、風に吹かれて乱されていく。
今夜はもう眠れそうにない。
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