たり‐よ【足夜】

たり‐よ【足夜】

〘名〙 満ち足りた夜。

茶色いくまのパズ、赤い長靴のアンネとルドルフ、通学カバンのアイリーン。彼らは今も俺のなかで、ずっとずっと生きている。

今、お前に対するこの気持ちはなんという名前なんだろうか。

目が覚めると既に日は昇っていて、およそ時計のあたりへ手を伸ばし、その途中で今日は休みだと気づいた。広くなってるベッドの脇の転がった酒瓶を立たせ、脱ぎ散らかしたシャツを拾い上げる。右から左へ移動させる。ハンガーからはずしたカットソーに袖を通すとあくびが出た。前髪を掻き上げながら辺りを見渡す。扉を隔てて、リビングから声がする。

「飯は?」

「ん……食う」

今日はメイス様特製オムレツだと、フライパンを構えて揚々と笑っている。へぇ、そりゃいいな。つられて口角を上げるとマヌケ面とからかわれた。

顔を洗い、よっこらせ、とテーブルにつく。見計ったように出来立てのコーヒーが差し出される。やけに機嫌がいいな、今日はなんかあったっけ?俺のそんな疑問をよそにメイスは鼻歌を歌いながら溶かしバターを操っている。

朝、メイスはテレビを見たがらない。起き抜けで悪いニュースを聞くのが嫌だと言って、曜日ごとにお気に入りのミュージックチャンネルへつまみをひねる。しかし今日は休みらしく、その小さなラジオからは聞きなれない声で、建国記念日の特別番組が粛々と進行していた。

朝九時からの式典は、この調子だとまだ始まっていない。まぁ、元テロリストには関係ないか。甘いオムレツを待ちながら熱いコーヒーをちびちびと味わっていると、礼砲が五発、風に乗って聞こえた。

「始まったか」

大皿を運びながら彼は言う。その上ではつるりとシワのない黄色い三日月がふたつ、湯気をあげる。

「おっ、すげー!綺麗に出来てんじゃん」

「当たり前だ。俺にかかれば大したことじゃない」

メイスは向かい側に座って頬杖をつき、身を乗り出す。首を傾げて、普段は低い声がなぜか今日は少し高い。

「食べたら行こう、式典」

「今日やけに機嫌いいな」

 出店でも出るのかと肩をすくめて笑うと、指先で髪をいじりながら、さあな、と勿体ぶる。

 メイスは、心を乱されると髪をいじる癖がある。その癖に気づいたのはもう何年も前のことだったが、敢えて指摘したことはなかった。どうしてもやめられない癖は誰しもあるものだ。普段は冷静な彼が、そわそわと白い指に一束の黒髪を絡ませる。そうして俺が卵の膜をぷつりと破るのを、びっくり箱でも開けるように、楽しそうに見ている。すると俺はその理由が知りたくなる。これは道理だった。

「今朝、早いな」

探りを入れるつもりはない。しかし自分だけが知らない世界は、どことなく寂しい。メイスがもし、自分にもそれを分けてくれるなら、このオムレツだって何倍も美味しくなるはずなんだ。

「ん?心配してくれるのか?」

 スプーンで卵をすくう。昨日の足夜を思い出す。口に入れかけたひと匙を、恥ずかしくなって下ろした。

メイスは物言いたげに上目遣いでこっちを見ている。これは常套手段だ、飲まれてはいけない。しかし薄く口を開いてはひとりで思い出し笑いをして、なかなか話を切り出さない。なんだよ、と睨みつけるが、それすら彼には面白いらしい。

痺れを切らしたところで、メイスはひとつため息をついた。人差し指にきつく髪が巻きついて、指先が鬱血している。そんなになるまでしなくてもと、さすがに口を出すか逡巡する。

昨日の、と彼は呟いた。口元が、皿の上の三日月と同じように甘くて、目を離せなくなる。彼の次の言葉を俺は待った。ラジオからは祝辞が延々と述べられている。

「お前のせいで、機嫌がいいんだ」

彼は長い髪で顔を隠し、目を逸らす。礼砲に合わせてドキンと心臓が跳ねる。

俺はこの気持ちに、まだうまく名前をつけられない。

金平糖

二次創作のかけら

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