雨だから、寒いから、眠たいから、腹が減ったから。簡単なことで人は悲しみを繰り返す。雨が晴れれば、夏が来れば、羽毛布団をかぶれば、あの店のシュークリームを食べれば。簡単なことで人は喜びを味わえる。
いつものように、そう、いつものようにだ、コーヒーを淹れて朝のラジオから流れる天気予報を聞き、ベランダに出て今日はなにを着ようかと考える。日々繰り返していた、当たり前にあったそれを今は渇望している。
バーニッシュは自由だ。法も、宗教も、ご近所付き合いも仕事もない。身ひとつで生きていく。自由という名の不自由を思い知らされて、嘆かないものなどいるのだろうか。
「バーニッシュの歴史は浅い。新人類が市民権を得るのは並大抵のことじゃない」
「だからってこのまま人でなしのように蔑まれてろっていうのかよ」
「メイス、落ち着け」
もう嫌なんだ。俺は過去人間だったのに、今は人殺しも容易いこの毒蛇を飼い慣らせず、発作のように唸るそれを持て余してる。
「俺はいつかお前も殺しちまうかもしれない」
眼前の紅い目は、俺の背後にある日光を吸い、燃え盛っては俺をつかまえる。
きつく結ばれた唇はきっとこの後俺に噛みついてくるだろう。逃げられないように、躾けるように、お前の居場所はここだと、身体で覚えこまされる。
不意にゲーラの手が伸び肩を掴まれると、その熱で頭に血が上る。俺の目を見ろと命令されて、馬鹿みたいに従ってしまう。
「うるせぇな!なにもわからねぇくせに!」
「わかんねぇよ!でも……あっおい!」
どうして離してくれないんだ。俺はもううんざりなのに。がくりと腰が抜けて、支えられながら地面に崩れた。
するとまた煩わしい炎の声がする。ぽん、ぽん、と軽やかに、音叉が響くみたいに炎はゆっくりと俺に語りかける。心臓と同じ速さで、鳴るたびに同じだけの血液を運ぶ。冷静になるために息を吸うと、ゲーラはその薄い体からは想定し得ないほど強く、俺を抱きしめた。困惑して黙りこくった俺に、彼は思い詰めたような声で言う。
「俺がついてる」
同じ速度で歩く彼の心臓の音が聞こえた。
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