氷の船

 イグニス・エクスは突然俺たちに、うちへ来ないかと持ちかけた。正確には俺がひとりでいるところを捕まえられ、後の二人にも聞いておいてほしいとのこと。何故だと問うと特に理由はないと言う。不躾にも程があると断った。しかし食い下がる。どうしてかと聞くと大したことじゃないと言う。埒が開かない。考えとくぜと言って俺はその場を後にした。

 まず最初にゲーラに伝えた。するとあくびをしながら二つ返事で行こうぜと言う。想定の範囲内だったがお前には警戒心というものがないのかと叱ってやった。

 次にボスに尋ねた。彼は少し考えて、どんな理由かわからないがもう争い合う必要はないからぜひ行こうと答えた。ボスがいいならいいですけど。そうして俺たちはイグニス・エクスの自宅にお邪魔することになった。

 昼食をご馳走になるだけの話だ。昼過ぎ揃って出向いた俺たちに最初に洗礼を与えたのは飼い犬のアグアだった。長い金色の毛並みを揺らしながらゲーラに飛びかかり、髪の流れを無視して舐めまわす。

「はは、すまんな。まだ若いから遊びたい盛りなんだ」

「お邪魔します」

 奥方とお嬢さんは出かけたから楽にしてくれと、ティーカップを運びながら巨体がやって来る。並んで椅子に座る俺たちはどうにもくすぐったいような、もどかしいような気配を拭えず、目を見合わせていた。ボスが口を開く。

「用件はなんだ、先に聞こう」

 するとイグニス・エクスはまた大したことではないと前置きし、サングラスの奥の目を細めて話し出した。

「なに、お前たちがこの先どうなるか、なんとなくわかるからな。その前に腹ごしらえでもと思って」

 きっと俺たちは裁判にかけられる。いや、確定事項だ。捉えに来るのはフリーズフォースか、警察か、知ったことではないが今は嵐の前の静けさといったところか。

「施しは受けねぇ、そんなつまらねぇご意見は知ったこっちゃねぇな、ボス、帰りましょう」

 ゲーラは立ち上がりボスの肩を掴む。しかし彼はイグニス・エクスを見つめたまま、何かを考えていた。

「あと、風呂にも入らにゃならんだろ。うちのを使ってくれ」

 風呂、と聞いて三人とも目の色が変わったのが俺にはわかった。逃亡生活中は湯に浸かるどころかシャワーもなかった。古い皮膚は焼けばどうにかなったが、炎がない今はそれもできない。ベタベタと気持ち悪いまま数日を過ごし、そろそろ嫌気がさしていたところだ。二人はすっと俺に視線をやり、無言で伺いを立てている。

「えっ、俺そんな、臭いです…?」

「いやお前は入りたそうにしてたからよ」

「イグニス、是非貸してほしい」

「ぬるかったらそのボタンを押すと熱くなる。噴出口に足をおいとくと火傷するから気を付けろよ。シャンプーとトリートメント、ボディーソープはこれだ。妻のだが許可は取ってある、スポンジは新しいから気にせず使え。アグアが扉の前で吠えると思うがうるさかったら言ってくれ、それから」

 他家の風呂はやはり居心地が悪いな。本当に借りてしまって良かったのだろうか。しかもボスもゲーラも後でいいと言うので俺が最初になってしまい、きっと全員分の注意事項を聞く羽目になっている。奥方とお嬢さんの迷惑になっては困るので、勝手のわからない機器の説明をひたすらに受けた。

 浴室はクリーム色でほぼ統一されていた。湯船から立つ湯気が充満し、体に張り付く。

 お湯の匂いなんて何年ぶりに感じたろう。内側が空洞になったその香りをぼうっとしながら吸い込み、シャワーの蛇口に手をかける。

 赤色の丸いシールが貼られた方をひねると、水が出てきた。その勢いは普段浴びていた雨よりも激しく、真っ直ぐに俺に降って来る。そのまま厚意に甘えて、トリートメントまでさせてもらった。ピオニーの甘い香りが自分から漂って来るとなんだか可笑しかった。

 クリーム色の船はおれたちをどこへ運ぶつもりだったのか。パルナッソス号は沈没し、タイタニックは愛を引き剥がす。ノアの方舟と謳ったそれが俺たちにもたらすのは、暗く狭い牢獄だというのに。

その船へ爪先を差し込む。熱くてさっと引っ込めてしまう。

「…熱いな」

 俺はしゃがみ込んで頭を抱えた。熱い。炎の熱さとは違う、これはどうしてこんなにほっとするんだろう。今度は手先を浸けてみる。爪の間まで熱が入り少し痺れる。手首まで浸かると、どくどくと脈が大きく聞こえた。

 外からアグアの鳴き声が聞こえた。大声でわん、わんと叫び、しまいには磨りガラスの扉を爪でカチャカチャ引っ掻き出す。後を追って聞き慣れた声が聞こえたきた。

「アグアァァァ? 逃げんじゃねぇよー! 俺と遊ぼうぜぇぇ」

 磨りガラスの向こうで幅広の犬の背をがっしり掴み、扉から引き離そうとする。扱いは慣れているらしく耳の上をわしわしと撫でたりしているうちに、アグアの注意はゲーラに向いたようだ。

「ゲーラ」

 声をかけるとすかさずどうした?と返事が来る。お前も入らないかと尋ねると、ゲーラの代わりにアグアがわんと返事をした。

「……大人ふたりで入ったら狭いだろうよ」

「広すぎるのも慣れなくてな。落ち着かねぇんだよ」

「この方が俺は落ち着かねぇよ」

 ぶすくれながらもゲーラは俺と向かい合い湯船に浸かっている。ふちに肘をかけ、熱そうにため息をつく。ゲーラはイグニスのシャンプーを使うように言われたらしく、ほのかにミントの香りが漂っている。

 乳白色の入浴剤のおかげで風呂の中は見えない。俺は膝を曲げ縮こまり、ゲーラは俺を挟むように足を投げ出している。

「……よかったな、来て」

「……うん」

「ありがてぇな。俺たちずっとあんな事してたのに、あの人たちはなにも言わねぇ」

「……ん」

「俺たちこれからどうなるかな」

 膝の間に頭を入れるように下げていく。唇が水面に着いても気にせず沈むと、ぷくぷくと泡が破裂した。返事をしなくてはと思い、また顔を上げる。

「…熱いな」

 水入れるか?と尋ねられるが、ボスが入るのにぬるいと困るから、いらないと答えた。

 鼓動は高鳴る。体温が上がり、俺は人間だと思い知らされる。バーニッシュだった頃叶わなかったこんな生活、炎がなくなった今、思い出されたように取り戻された生活。

「やっぱり、バーニッシュは人間じゃなかったんだろうか」

 声に出して、自分でも驚いた。ゲーラの方を見ると彼はのぼせた顔のままじっと俺を見る。

「あ……悪い、俺」

「……気にすんな、俺しか聞いてねぇよ」

 あの頃俺たちを奮い立たせていたのは、炎により力を誇示し、衝動によりすべて炎で支配できるという全能感だった。危害を加えられることはあったが、炎を持たない、力のない人間の言うことはただの負け惜しみにしか聞こえなかった。

 俺たちは強い、ただそれだけが生きる希望を与えていた。

 それがなんだ、炎がなくなった途端、無能みたいに弱い考えが浮かんでしまうなんて。

 ゲーラはざぶ、と身を乗り出す。俺の肩を掴んで引き寄せる。目の前には「雷刃」の刺青。水膜を纏った熱い体は低い声を響かせた。

「……わかってると思うけどよ、お前、この刺青に誓え。自分の命だけは絶対諦めんなよ」

 外からまたアグアの声がする。今度はボスがそれを追ってやって来る。

「俺もう上がるわ、のぼせんなよ相棒」

 外へ出たゲーラは鉢合わせたアグアに飛びつかれたらしく、続いてボスの楽しそうに笑う声がする。

「お前の刺青に誓うのか、……そうかよ」

 後の言い訳はいくらでもできる。俺は参謀だからな。俺はひとしきり泣いて、その船を降りた。

金平糖

二次創作のかけら

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