レイリーブルー(6)

六、ハッピーバースデー

 最寄駅は無人。たったひとつの自動改札。使い慣れた場所に遠くから知り合いが来るのは初めてで、ましてそれがメイスだというから浮き足立つ。都会っ子の彼の目にどう映るのか、それが問題だ。
 昨日あの後、メイスから会わないかと連絡があり、妹のことを話すと参加したいと言い出した。幼稚園児の誕生日会が楽しいとは思えないが母も妹も快諾したので、物好きな彼を駅へ迎えに行くことになった。
 駅前のベンチに座りのどかな風景を見る。小石ばかりの砂利道や、よくある名前の知らない雑草も、きっとメイスには珍しい光景だろう。
 後五分ほどで彼の乗る電車が到着する。浅く腰掛けていると数人のクラスメイトが自転車でこちらへやって来るのが見え、気付かれると面倒だと身構えた。少し距離があるからとさっと俯いてやり過ごす。しかし、通り過ぎたことを確認しようと視線をやると、そのうちの一人がぐるりと俺へ振り返るのが見えた。
 後少しだったのに。うっかり隣に座られないように大股を開き背もたれに両手を伸ばす。今気づいたと言うふりをして近寄ってくる彼の方を見ると、愛想良く話しかけてきた。
「あれ、ゲーラじゃん、どこ行くの? 俺ら虫捕りに行くんだけど行くー?」
「んや、人待ちだから。何捕るんだ?」
「へぇー、友達?」
「んんまぁ」
「なんだよ怪しくね? 彼女?」
「あー……ちがうな」
 あからさまか嘘はさすがにためらわれて、含みを持った表現になってしまう。はぐらかすなよと肩を組まれると同じタイミングで後ろから声がした。何度も聞いてるのにそれはいつも特別で、うっかり体が強張る。友人のヘッドロックに呻きながら声の方を見ると、メイスが不思議そうに微笑んでいる。
「ゲーラ、おはよ」
「あっ……メイス、ちょ、ちょっと待て」
 男かぁと残念がるクラスメイトに反撃を仕掛け、根を上げたところをしっしっと蹴散らす。メイスは、友達? と首を傾げる。
「あ、うん、学校の」
「そっか、悪いことしたな」
「そんなことねぇよ、明日学校で会うし。虫捕りに行くんだってさ」
「羨ましいな、毎日一緒なのか」
 楽しそうな彼の声に、子供みたいに友人とバカをやっている自分が気まずくて、視線は遠ざかる友人を捉えたままもごもごと曖昧な返事をする。彼らが見えなくなったのを確認してからようやく、行こうぜ、と声をかけた。
「初めまして、メイスと言います。ゲーラ君にはお世話になってます」
「いいえーこちらこそ! 電車疲れたでしょう、上がって上がって」
 家に帰るとすでに誕生日会は始まっていて、奥では明るい笑い声が聞こえる。メイスは深々とお辞儀をし、その凛々しさに母は余所行きの笑顔を向けた。
「メイス挨拶とか出来るんだ……」
「は、俺をなんだと思ってんだよ」
 俺は肩を小突かれて、メイスは機嫌良さげにいそいそと奥へ進んでいく。
 部屋は折り紙の輪を繋げたありふれた装飾を施され、壁一面のレースカーテンから差した日光で金銀の輪が光る。テーブルには母お手製の、オムライスにサラダ、フルーツポンチ、フライドポテト。全部妹の大好きなもので、彼女をはじめ子供達は仲良くそれを食べていた。彼女の隣では金髪の少年が楽しそうに話している。
「あっ、おにぃ!」
 妹は立ち上がり、両手を広げて駆け寄ってくる。しかし俺にたどり着く前に隣のメイスに気づいてびくりと肩をすくめ、おろおろと少年の後ろに隠れてしまう。
「おにぃ…?」
「あ、これおにぃの友達、メイスってんだ。挨拶して」
 メイスは恐る恐る前へ出る妹に近づき、同じ目線へ跪いて、その小さな手を取って言う。
「はじめまして、メイスといいます。お兄さんにはお世話になってます。よろしくね、アリエスちゃん」
 王国の姫のように丁重に扱われ、妹は言葉を失っている。メイスはにっこり笑ってその手を繋いだまま、おもむろにギターケースに手をかける。片手でジッパーを開けながら辺りを見渡し、子供達を前に言った。
「プレゼントタイムはまだかな」
 出てきたのは濃紺のアコースティックギターだった。ツヤのあるそれが現れた途端、辺りはきゃあっと玉のように明るい声で賑わい出す。メイスは未だ目を丸くした妹の手を優しく弦へ引き寄せ、ぴんと一本弾かせる。奥ゆかしい響きに妹はほっとした表情で周りを見やり、メイスが立ち上がると子供たちは興味津々で近寄ってくる。俺の目線とかち合うと、彼はしたり顔で笑う。
「今日の主役に一曲差し上げたいんだ」
 ひとかきメジャーコードを弾くだけで、すごいすごいと観衆は飛び跳ねて喜び、それをふわりと包む和音はとても穏やかだった。それがハッピーバースデー・トゥ・ユーだと分かると、揃って高らかに歌いだす。もう一回、もう一回とアンコールは鳴り止まず、彼の指先からはとりどりの花が咲いては散る。花吹雪をすくい上げるように子供たちも舞い踊り、部屋はみるみる鮮やかに彩られていった。
 俺は隣で小さく口ずさむメイスの声を黙って聞いていた。眩しくて、深くて、あたたかい声。メイスは俺の視線に気づき、小さな声でお前も歌えよと言う。だけど俺は嬉しそうに高揚した彼の笑顔にただ見惚れて、微笑み返すのが精一杯だった。
 子供達はもっともっとと催促する。あれ弾いて、これ弾いて。膝に抱きつかれながらここでもメイスは大人気で、子供らしいリクエストに笑いながら困り果てている。
 その困った顔が思った以上に可愛くて、ずっと見ていたかった。しかしすぐに彼は顔を上げ、俺の後ろにいた母を指差し子供たちの注目を逸らした。
「さ、お待ちかねのケーキよー! 座って座って!」
 いちごが乗った大きなホールケーキを目の前に、無邪気な観客の関心は波が引くように移っていく。解放された彼に俺が声をかけるとホッとした顔をした。
「メイス子供好きなのか? 意外」
「あー割とな。かわいいよな」
「あっはは、全然知らなかった!」
「ふたりで話してて子供好きとかいったらおかしいだろ、変態かよ」
「そこまで言わねえって」
「ひとりっ子だからな。扱い方全然わかんねぇけど、でも…もしも自分の子供だったら本当に嬉しいだろうとは思うな」
 テーブルを囲む黄色い声に掻き消されそうな小さな声でメイスは言って、その言葉に俺は動揺した。突然頭の中に濁流が流れ、適当な相槌を探すけどなかなか見つからない。
 融解したはずの結晶はほんの少しだけ鋭利になる。目では分からないくらい少しずつ成長し、ちくりと俺の心臓を刺した。
 彼は子供達を、俺はメイスをしばらく見つめていた。
「ほら、あなたたちも食べなさい。たくさん作ったわよ」
 母の声ではっと意識を取り戻し、言われるがままにケーキのいちごに手を伸ばした。
 夕方になり、子供達は母が車で送っていくという。メイスは存分に楽しんだという顔をして母と妹に礼を言い、また俺と視線を合わせた。
「帰ろっか」
「ああ、行こう」
 畦道は夕焼けに染まり、山へ視線を移すにつれて夜色のグラデーションを広げていた。メイスは俺からほんの少し離れて歩く。横目でちらちらと様子を伺いながらも、ちょうどいい話題を引き出せず沈黙が続いた。お互いが、まだ帰りたくない、黙っていないで話したいと思ってたはずで、無意識に歩くスピードが遅くなる。隣に佇む寂しさの気配を感じながら、出かかった脈絡のない声はまた飲み込まれてしまう。意味なんていらなかった。中身がなくても、今はその声が聞きたい。
 メイスが急に、空を仰ぎながら涼しそうな声で言った。
「空が広いな、ここは」
「そうか? 毎日通るから慣れちまったな」
「俺が住んでる所とは全然違うよ、高いビルばっかりだから」
 後ろにそびえる山々から広葉樹のざわめきが聞こえる。メイスの髪はそれに合わせて乱れ、それを抑える手には指輪が光っている。
 今日も俺はこれをはめていなかった。でもメイスは何も言わない。特別なものだと思っていたのは俺だけなのかなと少し切なくなる。ほんの少し距離を詰めて、真っ直ぐな一本道を見据える。
「今度……メイスの街にも行きてぇな」
「本当? 是非来てくれよ、買い物する所ならたくさんあるんだ」
「おい嫌味かよ!」
 彼は犬歯を見せながらにっかりと笑う。寂しい気持ちはきっと彼も同じだ。困らせないように、揺らいでしまわないように、そっと自分を慰めた。
 駅は閑散として、よく見ると次の電車まで三十分以上あった。もう少し家にいればよかったとわめきながらベンチに並んで座ると、遠くにある半分ほど沈んだ夕陽が眩しい。
「妹、お前に似てるな」
「そう? そんなに言われたことねぇけどなぁ」
「目つきかな、結構わがままだろ」
 メイスはベンチにもたれながら、愛おしそうに目もなく微笑む。それはいつか俺を見据えたものと似ていた。
「確かにわがままだなぁー、でも俺は違ぇから」
「多分これからわがままになるぞお前、目がそう言ってる」
「えー? まじかよ、嫌だな」
 街灯が灯る。揺らめいた自分の中の炎が、どこに向かっていたのか未だ俺にはわからない。わからないまま返事をすると、苦い酸素を取り込みチリチリと音を立てる。
 田んぼの向こうに電車が走っていた。豆粒のような車体がコトコト揺れて、遠いなぁと素直に考え馳せた。メイスは大きく伸びをして、ため息交じりに言う。
「あー、このままゲーラと一緒に帰りてぇな」
 一緒に行くか? そう冗談めかした声で言われて、振り向いた先の澄んだ菫色にどきっとした。普段は青く鋭い三白眼が、花弁が虫たちをからかうように蠱惑的に発泡して、夢中になってしまう。
 ああ、夕焼けのせいで混じってるんだ。
 その瞳が、俺の炎にどんどん空気を含ませる。
「行かねぇよ明日学校だし」
「はは、だよなぁ。……ゲーラがさ、最初遊びに行きませんかって言ったあと、しばらく連絡しなかったろ」
「あーあれ。俺嫌われたのかと思ったわ」
 メイスは呆れたように、そんなわけないだろうと続ける。少し遠くを見る為に背筋を伸ばすと、その先にはどこまでも続く線路がある。彼はさらにその向こうに、これから出会うべき何かを探しているような切なげな表情をした。
「俺あの時、あの曲作ってたんだ。初めてだったから時間かかっちまって、でもどうしても形にしたかった。リーダーにも教えてもらって、スタジオでレコーディングとかして、すごく勉強になったんだ。ちょっと照れるけどちゃんと気持ちは込められたと思う」
 遠くを望んだまま、声が必要以上に弾まないよう気を付けながら彼は言う。俺には心の底で湧き立つその喜びが十分に伝わって、ふと、部活の試合で勝利をおさめたあの瞬間を思い出した。大声で叫びたくて、胸いっぱいに膨れた喜びを誰かと分かち合いたかった。俺の場合のその相手はチームメイトに他ならなかったけど、今、彼のこの思いを共有できるのは、誰なんだろう。
 唐突に俺は、心の中のあの扉の枠組みを思い浮かべた。あれはどんな形をしていたか、どんな色だったか、あまりにも古く色褪せてなかなか思い出せない。
「すげーよかったよ」
「本当? よかった。タイトルさ、レイリーって言うんだ。レイリー散乱っていう現象があって、光が空気に反射して、屈折して、何度もなんども小刻みに散乱して広がって、最終的に地表に届くのは青色だけで、だから空は青く見えるっていう現象なんだけど」
 彼は俺を望んでいるのだと、もう何度も告げられていた。なのに俺はどこを間違ったのか、メイスの気持ちを素直に受け取れなかった。
 電車は秩序を保った走行音を立て、確実にやって来る。この線路の向こうに何があるか俺は知ってる。ただの無人駅がぽつんとあるだけで、何年も前から誰にも意識にも上がらないまま存在する。
 俺はそこを何も考えず通り過ぎるだけ。突き当たれば折り返すしかなく、同じところを行ったり来たりして、それしか脳がないみたいにただ朴訥と、無配慮なまま繰り返すだけ。
 でもそれをメイスは知らない。この先に誰も知らない新しい未来があると信じて、それを夢見ている。彼は間違えないように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「お前に出会う前の俺、なんかそんな感じだったなって思って。……いろいろあったんだ。まだ辛くて言えないこともあるけど、でもそのおかげで自分がどうしたいか分かったし、ゲーラのこともちゃんと見つけられた。いつかそれも含めてお前に知ってほしいんだ。俺のこと、全部」
「辛いこと?」
「ああ、ゆっくりでいいから知ってほしい」
 俺は俯いて、太腿に肘をつく。砂利を避けながらちいさなありが一匹だけで歩いている。
「……お前さ、俺のこと、なんで好きなの?」
 純粋な疑問だった。どうして彼は俺を運命だなんて言うんだろう。もちろん俺の中にも彼はいた。ずっと、ずっとだ。けどそれは空想の世界への扉に過ぎず、心を落ち着かせるためのただの呪文だった。
 けど今は違う。俺の心をかき乱して、引っ張って、捕らえて離さない。最初はその未知の世界にときめいてもいたけど、今はそれ以上に焦りを感じてる。瞬きをするたびにころころ変わるメイスの表情を見て、俺は置いていかれるんじゃないかって不安になった。
 住む世界が違う。土台も行先も正反対なのに、運命だなんて言葉で閉じ込めていられるわけがなかった。堰を切ったように出てくるのは、全部ただの嫉妬。確固たる自分の世界を持ってるメイスが羨ましい。アメフトしかない、学校しかない俺とは比べ物にならないくらいに魅力的で、俺はそれに見合う人間になれなくて、苦しいだけだった。
 知らず知らずに眉間が険しくなっていたらしい。心配そうなメイスの表情が、さらに俺の劣等感に拍車をかける。顔を覗き込む彼から逃げるためにふいと顔を背けた。
 喉がひりつく。胸の奥から押し出されそうになるこれは、ただの焼きもち。分かってるのに、心火を含んだ低い声が俺の神経を削ぎ落として、頭が痛くなる。
「俺のどこが好きなんだよ。だってお前、俺にないものいっぱい持ってるし、学校しか言ってない俺と違っていろんなことやって、充実してるだろ」
「…ゲーラ?」
「メイスかっこいいし、俺なんかにちょっかい出さなくても、モテんだろ」
「どうした、急に」
 寂しい、悲しい、メイスがいつか俺に見向きもしなくなるのが怖い。だったら最初から、胸の中だけにあった扉の中のメイスだけと一緒にいた方がいい。
 俺の周りにいつか彼を引き寄せ、あの時扉を閉ざしてしまった蔓が足元に這う。それがあおあおと四肢を覆い光を遮ると、あっという間に身体中の動きを封じられ、たまらず熱を求めて無理に指先を合わせる。最早血の気を感じない。刃物のようになった指先を祈るようにきつく握った。
 電車は意識とは反対方向に、体裁を繕うために耳鳴りを起こしながらも進む。隣で俺に手を伸ばす菫色を切り捨てる事が出来ないのに、生まれた蕾を酸っぱい反吐みたいな蔑みの色に染めて吐いた。
「運命とかってさ、意味わかんねぇ。俺がお前のこと好きになるかもわかんねぇのに、なんでそんなに構うわけ? 運命なんて、んなもん、ねえよ」
 メイスは押し黙っていた。けどその表情が凍りつく気配がひしひしと伝わって、自分が生唾を飲み込んだ音が頭に反響した。視界の隅に辛うじて入る彼は微かに唇を震わせて、俺はそれを直視できない。
 電車は何本か見逃された。誰も降りてこない駅舎に、俺たちを知る人は誰もいない。
 無言のままメイスは帰って行った。
 帰宅後すぐ、顔が赤いと心配する母から逃げるように自室の窓へ飛び込んだ。浅い呼吸のまま仰ぎ見た空は濃い群青をしていて、きっとだんだんと、背後に佇む薄明を飲み込んでいっているはずだった。
 足は冷たく力は抜け落ち、ずるずると窓の桟に崩れる。脳裏には彼が幾度となくフラッシュバックし、大きな耳鳴りで何も聞こえない。あんな顔させて、自分が何をしたいのか全く理解できなくて、どす黒く蔓延ったものを嘔吐したくなる。しかしいくら掻き毟っても喉元でつっかえたままだった。
 視線を少しだけあげるとオルゴールがコロンと鳴る。指輪は少年の両腕にちゃんとかかっていて、これを選ぶ彼の体温を思い出しては、その健気さにまた眉間が熱くなる。
「まじ最悪。俺ほんっと、ばかか……」
 ぐしゃりと前髪を崩して、窓の桟に大袈裟に頭をぶつけた。脳震盪を起こすほどに打ち付け、むしろ起こして気絶してしまいたいくらいの後悔にさいなまれる。
 夜は更ける。星降る夜にひとり、自分のしでかしたことの大きさに打ち拉がれては閉じたままの携帯の画面に縋りたくなる。足元から隙間風がベッドの中にまで入り込み指先は透けてしまいそうな程冷たくて、メイスにこの手を温めて欲しいと悪びれもせずに考えてしまう自分にますます嫌気が差した。
 彼からの連絡はなく、俺からも連絡できないまま、時計の針は無情に通り過ぎていく。カチカチとその無機質な音を、黙って聞くしかなかった。

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