レイリーブルー(7)

七、月で射る矢

 その夜俺は熱を出したらしい。
 朝は体の浮遊感に始まりはっきりとしない部屋の輪郭をしばらくぼうっと眺めていた。胸元はぽっかりと寒くて、頭は熱い。朦朧とする意識を必死で起こしながら、こんなにも揺さぶられてしまう自分の体が情けなかった。
「あららーどうしたの。高いわよー。メイス君来て興奮したんでしょー」
「んだよそれ……意味わかんね」
 寝込んだままの俺のベッドの脇で母が体温計を振り冷ましながら、ウサギに仕立てたリンゴを差し出す。関節の痛む上半身をのそりと起こすと、こもった熱が流されてぶるりと震えた。フォークごとリンゴを受け取り下から滴る塩水を吸う。
「子供じゃねーんだから」
「あんたじゃなくてアリエスがそうしろって言うの。そう言えばあんた小さい頃から言ってたもんね、メイスと結婚するんだーって」
「はっ?」
「ほんとほんと。めーちゅはね、俺のね、およめちゃんなの! とか言ってた。可愛かったなーあの頃は」
 大袈裟な猫撫で声を出し、俺の真似だと言い張る母に絶対嘘だと文句を言うがまるで見向きもされない。一口目をしゃく、と齧ると、季節外れのはずなのにみずみずしいそれからじゅわりと果汁が垂れる。
「あのオルゴールだってメイスと一緒だからーって駄々こねて買わせたのよ? 大事にしてるみたいで良かったけど」
「えー、全っ然覚えてねぇ」
「ま、どうせこれからどうなるか、お母さんにはよーくわかってるから」
 なんだその自信は。鼻歌まじりに上機嫌な母に心持ち引きながら、怖えぇな、と言うと、母は食器を俺の膝の上に置き、濡れタオルで額の汗を拭く。氷水でわざわざ冷やされたそれは沸いた頭を少しだけ冷静にさせた。
 母は俺とは似ていない。丸いくりっとした黒い目は、そこに映したもの全てが本当にわかってしまう不思議な吸引力があった。母の皺の多い手が俺の頰に触れると、久しぶりの母の匂いに昔の自分がフラッシュバックする。昔はよく風邪をひいたな、とか、気づいたら怪我をして病院に運ばれてたな、とか。母は濡れタオルを盆へ移し、俺が冷えないように腰まで布団を寄せながら言った。
「あんたね、まだ若いんだから細かいこと考えなくていいのよ。母さんが若い頃は結婚して子供産むことが当たり前で、それが出来ない人はおかしいとかって言われたけど、今はもうそうじゃないの。幸せって、目の前にあるものを大切にするだけでいいの。誰に何言われても、自分が大切だと思うものを守れるように、それだけしっかりやりなさい」
「……大げさだろ、まだ高校生だし、ってか男同士だし」
 まぁ、がんばれ。そう言って母は俺の髪をポンと撫で、妹を連れ仕事へ行ってしまった。
 皿の上のウサギを平らげてベッドへ寝転ぶ。一日が鉛を運ぶように重たくゆっくりと過ぎる。夢と現を繰り返しながら、携帯を見てもメイスからの連絡はなく、クラスメイトから送られた見舞いのメールにぽつぽつと返事をしていた。
 夜になり母と妹が帰ってくると、たちまち妹が俺の部屋をノックしてきた。
「おにぃー、あけるよー」
 キィ、と頭の上にあるドアノブを両手で押し開け、ひょこっと顔を出してくる。それから彼女は小さな爆弾を投下した。
「ねー、次メイスちゃん来たらさー、何して遊べばいいー?」
「……メイスは来ねぇよ。遠いもん」
「えー!」
 甲高い声が頭に響く。耳を塞ぎしかめ面をするが彼女はそんなことを気にもとめず、履いているスカートをひらひらさせながらベッドの端にすり寄ってくる。
「おにぃ、あたしねー、メイスちゃんによしよししてもらったんだー、いいでしょ?」
「よかったねー、メイス優しいもんな」
「んー、おにぃがゆびわしてくんないから悲しんでた」
「……まじで? そんなこと言ってた?」
「お母さんが、かいしょうのないやつだなーって言ってた」
「いつのまに話してたんだよそんなこと」
 それから彼女はベッドの端に突っ伏して、潤んだ上目遣いで俺に甘える。
「ゆびわしてね、おにぃ」
「わかったわかった、あとでな」
「いーま!」
 言うなりぱっと立ち上がり、ととと、と机のオルゴールに手を伸ばす。両手で丁寧に蓋を開け、コロンと鳴った少年の頭を指先でよしよし、と撫でてから、彼女は指輪を俺に差し出す。一連の動作に迷いはまったくなかった。
「…なんで場所知ってんの?」
 彼女はきょとんとして、にっこり笑う。
「おんなのかん!」
 自信たっぷりに言われ、返す言葉もない。俺の手を布団から引っ張り出し、小指に指輪を押し込まれる。ここ? と聞かれて、自分で左手の薬指にはめ直した。手を広げて見せると納得した表情でうなずき、いい子いい子と頭を撫でられる。
「これでメイスちゃん来てくれるねぇ」
「アリエス、メイスのこと好き?」
 俺は、これまで彼女に向けていた過度な期待を後悔した。彼女はこんなにも俺をありのままに見つめるのに、俺は勝手にメイスを押し付けた。本当のことを言うと彼女が生まれた時、自分のこれまでを否定された気がして苦しくて避けていたんだ。しかし喃語を話し出した彼女は、にい、にい、ってよく俺を呼んだ。
 どうしてかは聞けなかった。彼女が俺に与えるあたたかさの大きさが怖くて、応えることが出来なかったから。
「うん! メイスちゃん、おにぃのこと好きって言ってたから、好きー!」
「……俺のことも、好きなの?」
「おにぃはねー、わたしのお兄ちゃんだからねえ、大好きよ?」
 ベッドに頬杖をついた太陽のような満面の笑み。無垢で真っ直ぐな意志。うっかり涙がこぼれそうになるがこれは熱に浮かされているからだと言い聞かせ、唇を噛み締めながら、ありがと、と言った。
 それから三日間学校を休んだ。
 久しぶりに登校すると、どうやらメイスの噂はクラス中に広がっていたらしく、あっという間に三人に取り囲まれて囃し立てられる。背中を叩かれたり髪を乱されたり、病み上がりの俺にも一切遠慮がない。
 彼らは俺と同じアメフト部に所属して、クラスも三年同じだったので学校ではほぼ常に一緒にいる。メイスが来た時に虫捕りに行くと言っていたのはこのうちの一人で、早速すっとんきょうな声を上げて俺の席へ滑り込んで来る。
「ゲーラー! お前なんでこんなに休むんだよ! お前がいねぇから昨日のゲームまじで出オチだったんだけど⁉︎」
「昨日ゲーム? マジかよ早く言えよ行くのに!」
「いや無茶言うなゲーラ、死ぬ。昨日先輩たち来ててやばかったから」
「こないだのあの男のせいだろ! なんだあのイケメン! 俺のゲーラ帰ってこーい!」
 三人が代わる代わる、昨日のゲームがいかに無謀であったかを語る。ランニングバックを担う彼は、先輩たちに気圧されキャッチが出来なかったという。お前なら勝てたのにとメソメソしながら、髪をぐしゃぐしゃと乱してくる。抵抗しながらもいなしていると、話題はまたメイスに戻ってしまう。
「それって彼氏かよ」
「いやまじすげー美人でさ! 写真撮っときゃよかったー!」
 髪が長くてとか色が白くてとか、やめろと言うのに耳を傾けられることはなく、矢継ぎ早に繰り出される妄想で、徐々に彼らの中のメイス像が出来上がっていく。
「本当にただの美人じゃん、なんでゲーラと仲良しなんだよ」
 ひとりが、さあね、と両手を肩まですくめ上げる。
「ゲーラ天然だからなぁー、アホの子ほどかわいいって言うじゃん」
「ちっげえわ俺はかっこいいわ」
 何度否定しても三人の中のメイス像はありもしない形にエスカレートしていく。美人は三日で飽きるとか、余計なお世話だ。野暮な噂話と捨て置くことも出来なくて、とうとう最後の一言が俺の逆鱗に触れた。
「あっちに本命がいてゲーラは遊びだったりして」
「ンだと? もういっぺん言ってみろ!」
 机に両手を叩きつけると想像よりも大きく響き、自分でも驚いた。友人はしまったという顔で肩をすぼめてこちらを見ている。小さな声でごめん、と呟き、すっと離れた。
「……あ、悪りい、その」
 言いかけたところで無情にもチャイムが鳴り、彼らはシンと静まった机の周りからそそくさと自席へ戻っていった。
 一日は過ぎ、いつも通りひとりで電車に乗る。今日はやけに物寂しく、今までは空想のメイスのおかげで孤独を感じなかったのだと改めて思う。あの頃はずっと一緒だったのに、もう今は何もいない。扉は固く閉ざされたまま、びくともしない。
 二両編成の電車はしばらくするとハブ駅に差し掛かる。他の乗客はそぞろに降り、いつもはここで本当にひとりになる。しかし今日は後ろから声をかけられ、振り返ると今朝俺に構ってきたうちのひとりが、さも偶然を装うようにして立っていた。
「ゲーラ」
 なんとなく気まずくて、素っ気なく返事をする。
「降りねえの?」
「ん、悪かったな、今朝」
「別に、お前のせいじゃねえよ。どっか行くのか?」
「たまにはいいだろ。俺も見たかったなと思ってさ、そのメイスってやつ」
 彼がボックス席に座る俺をしっしっと奥へやり隣に座ると、窓からさす光で眼鏡のつるが光った。鼈甲のフレームが美味しそうだといつも思う。エイレーネは小学校からの友人で、アメフトに俺を誘った張本人だ。
「名前まで知ってんのかよ」
 あいつが言ったんだな、とお調子者のあっけらかんとした顔が浮かぶ。エイレーネはスポーツバッグを膝の上に抱え直し、眉をひそめて言った。
「つか、小さい頃言ってたろ、メイスメイスーって。誰? って聞いたらわかんねぇって言ってて、こいつ馬鹿かって思った」
「……はは、それ母さんにも言われたわー」
 乾いた声で返すと彼も同じく小さく笑い、ぽつぽつと呟く。
「本当小さかったから名前しか覚えてないけど、メイスのこと話すお前すっげー幸せそうでさ、謎に面白くなかったなー俺。お前、あん時俺としか仲良くなかったからお前のこと全部知ってると思ってたのに、途端に俺の知らないゲーラになって」
「そうだっけ」
「そうだよ。すぐ何にも言わなくなったから、やっぱ頭おかしかったんだと思ったけど。本当にいたんだな」
「いたんだよなーこれが。びっくりだよな」
 エイレーネは窓の外を見る。田んぼばかりの景色を曇りなく見つめ、懐かしそうにする。
 昔からあまり物事に関心を持たない俺と、彼はいつも一緒にいて、時に引っ張って、いろんな場所に俺を連れて行ってくれた。アメフトを始めてからはこいつが相棒だったなぁ、なんて思いながら、断片的な彼の思い出を探る。その端端にどうしてもメイスがいた。彼がメイスだったらいいのにって、何度も思っていた。
「俺、メイスが現れてくれて良かったと思ってるよ」
「なんだよ急に、保護者面しやがって」
「そんなもんだろ、俺の立ち位置。お前がずっとボーッとしてっからわざわざアメフト誘ってさ。まぁ、よかったよ。俺の存在意義ってもんが報われる」
 俺も彼と同じ方向を見る。鬱蒼と茂る木々が車体をかすめ、擦れる葉音が痛々しい。
「……俺さ、ずーっとメイスが頭ン中にいて、なんかそのイメージが消えねぇんだよな。海の中みたいな、包まれてる感じっつーか。本物はいろんなこと出来て、かっこいいし可愛くて。俺なんかで良いのかな、とか、あいつは俺のこと……好き…、って言うけど、俺なんかあり得ねぇよなーって」
「メイスのいない人生なんて考えられんの?」
 強い口調で遮られる。口を結び、車窓を凝視する。メイスのいない人生なんて今までなかった。物心ついてからずっと彼がいて、扉の奥の彼が現実の彼に上書きされた今も、毎日頭の中に居座っている。けど人生なんて、将来なんて現実味がわかず苦笑する。
「……お前さぁー、そういうのやめろよ。重くねぇ?」
 天井を仰ぐと木漏れ日がちらちらと映っている。これまで見てきたメイスの顔が脳裏に蘇り、嬉しかったり、切なかったり、抱きしめてやりたかったり、目まぐるしく変わる自分の気持ちについて行けなかった。
「お前が考えることから逃げてんだろ。自分がそいつに見合わないなんて誰が決めたんだ。そのメイスがお前にそう言ったのか? だったら俺が殴りに行ってやるよ」
「いや言ってねぇけどさ、でも分かんだろ。俺は学校行って部活やってるだけだぞ? あいつとは全然違う」
「俺はメイス見たことねぇから知らねぇよ。でもお前のことはわかる。好きなんだろ? だったらそのネガティブなのも正直に言え。それが運命を共にするってことじゃねえの」
「な……」
「俺に誓って、ちゃんと言え」
「……う、わかっ、た」
 グリーンの瞳は昔から俺に決定権を与えない。それを彼は知ってて言い、案の定俺が従うと、決まって雛鳥を見るような顔で笑う。
「お前は本当に馬鹿だな」
「ンだよ、お前が言ったんだろ」
「絶対言え、明日報告しろよ」
「は⁉︎ 明日は無理だろ!」
「先延ばしすんな、自分を信じろ!」
 ピシリと指をさして念押しし、彼は次の駅で降りた。
 普段は人気のない最寄駅のベンチに、今日は誰かが座っている。西陽に向かって、メイスがひとり佇んでいた。
「……よぉ」
 見知った顔は興味なさそうに俺をちらと見る。無意識に背筋に緊張が走り、思いの外低い声で、なんでいんの? と返してしまう。彼は事もなげに言う。
「別に、お前と違って自由だからな」
「……なん、」
「もうゲーラとは会わない」
 彼は正面を向いたまま、細い足を組んでいる。俺は一瞬喉がつかえて咳払いをし、腹の底に落ち着けと言い聞かせる。
「……なんて?」
「悪かったな、運命だとか恋だとかうるさく言って。なんか会ってみたら意外と可愛い子だったから、ちょっかい出したくなったんだよ」
「メイス」
「今までのことは忘れろ、それだけ言いにきた」
 早口で捲し立てるように言い放ち、メイスはさっさと立ち上がって改札の方へ向かう。とっさにその腕を掴むと、恐ろしく冷たかった。
「メイス待て、なんで? どう言うことだよ?」
「そのままの意味だ。面倒臭せぇから遊びはもう終わり」
 メイスは振り返らない。氷のような腕はかすかに震えて、なのに大きく脈打っている。彼が自分の意に反したことを言っているのは誰の目にも明白だった。
 言わなきゃ、今。声が震えて、喉が押し潰されてしまいそうなのを奮い立たせ、また低く声を出す。
「……あ、あのさあメイス、俺お前のこと、出会う前から知ってたよ。それはお前も同じだろ? お前は全部わかってたみたいだけど、俺にはなんにも知らなくて、だから戸惑った。運命って、ずっと一緒だなんて、そんなこと出来るのかなって。子供とか、出来ねぇし……でも」
「……でも?」
 彼が少しこちらを振り返る。切れ長の左目が俺の足元を見て、苦しそうに細められる。彼の腕を握り直すと細い肩をひくりと揺らし、それからゆっくりと正面を向くと、彼は髪が邪魔だというように首を傾げた。
「俺は遊びなんかじゃない。だからちゃんと返事する」
「別に、……俺たちはそんなんじゃねぇよ。ガキみたいなこと言うな」
 伏せられたまぶたの奥で青い瞳が揺れてる、どうか泣かないでくれ、そんなことになってしまっては、俺はどうしたらいいかわからなくなる。
 メイスは眉根を下げながら俺をまっすぐに睨む。無理にあげた口角を引きつらせ、放たれた言葉はあまりにも無機質だ。
「男同士で運命なんて笑えるぜ」
 この半年間、メイスと出会っていろんな話をして、彼が俺にとって特別な存在だということは紛れもないことだった。
「メイス、頼むから嘘つくな。俺さ、」
 親友とも恋情とも、最初はどれとも取り難い感情だった。俺の心を深い海底に沈ませ、安寧をもたらす魔法の言葉だった。でも今は魔法や呪文なんて不確かなものじゃない。
 ここに確かに存在する、唯一無二だ。
「俺のことなんとも思ってないくせに」
「そんなことねぇよ! 話しようって言ってんだろ!」
 メイスの心臓の音が聞こえる。一定のリズムを刻んで、キンと張り詰めた血液を身体中に流している。凪いだあの扉の中に沈黙し、永遠を揺蕩っていたかった。けど言わなきゃ。この片割れを俺はどうしたいのか、言わなきゃならない。
 意を決すると同時に、メイスはもの凄い勢いで俺を睨みつけ、あの日と同じ声で叫ぶ。
「じゃあ言ってやるよ! 悪かったなぁ勝手に好きになって! 俺はな、生まれてからお前がずっと心の中にいて、そのせいで今までなんにも楽しくなかった。どこの誰かもわからないのにずーっと、ずっとだ! 友達も家族も、恋人も作ったさ、でもだめだった。ゲーラがいない日々に耐えられなくて、お前もきっと好きだろうと思って、これで絶対会えるって信じて音楽もやってきた。やっと会えたと思ったらなんなんだよお前! 俺と真反対じゃねぇか! すっごい、純粋で……こんなに明るくて可愛いなんて知らなかっ……。嫌だ、もう嫌だ。なんなんだよ……」
 メイスは両手を固く握り締め、涙をこらえている。しゃくりあげそうな肩を震わせ、眉間にしわを寄せて、しかしとうとう堪えきれずにぽろっと一粒こぼれ落ちた。
 それが起爆剤となり、箍が外れて大粒の涙がぽろぽろとあふれだす。
 俺に一直線に向けられた声は、怒りや悲しみの負の感情で満たされて、しかし彼の中のゆりかごで優しく大切に守られていたものだった。
 しかし強い口調の裏に垣間見えた寂しさを優しく包んであげるものは今は無く、メイスは指先だけでは間に合わず拳を使って涙を拭っている。
「お前が現れた時本当に嬉しかったんだよ、本当にいるんだって、気のせいじゃなかったって。周りの景色があり得ないくらい綺麗に見えて、お前のことみんなに自慢したくて、たまらなかった……」
「メイス……」
 俺が彼にこんな顔させてる。堰き止めていた感情をあふれさせ、彼は髪を掻き上げながらそっぽを向く。俺が落ち着いたらいけないのはわかっているけどどうしても嬉しくて、こんなに俺のこと思ってくれる人がいることをようやく理解して、胸のあたりがぎゅっと締め付けられた。
 ふぅ、と自分を落ち着かせる為に息を吐いて、彼は言う。
「でも駄目なんだ、俺はお前にとって重荷でしかないのに、気持ちを押し付けちまう」
「ちがう」
 ずっと心の中にいたメイス。それがだんだんと形を成して笑いかけ、今俺に向かって牙を剥いてる。手を伸ばせば確かに触れられる、今ここにいる、本当のメイス。
「俺、お前が好きだ」
 キスなんて初めてだった。コーヒーの味が苦くて、柔らかくて安心した。メイスは少し体を引いたけど、肩を掴んで引き寄せる。次第に彼も唇を押し付けてきて、つい手に力が入る。熱い舌で唇をこじ開けられ、強く吸われて体が痺れてしまう。真似をして俺の舌を押し込むと、メイスの喉の奥から声が漏れて離れた。
「ん、…ぅ」
「メイス……」
「悪い、ほんと……やば…もう、ほんっと何お前」
 ひくひくと泣きながらメイスは俺の髪にそっと触れ、熱を取り戻した細い指が俺のうなじを撫でると愛おしさがこみあげる。お返しにメイスの首を撫でると、喉をごくんと鳴らし、崩れるように俺を抱きしめてくる。
「ゲーラ……、ごめん、でも俺の気持ち知ってんだろ? もうひとりは嫌なんだよ」
「うん、大丈夫だよメイス、一緒にいるから」
「嘘。女の子の方がいいくせに」
 メイスはもぞもぞと頰をすり寄せてくる。高い鼻が俺の首に触れ、吐息が当たってくすぐったい。俺も彼の方へ頭をもたげ、耳の形に盛り上がった黒髪に向かい声をかける。
「ううん、メイスがいい」
「……証拠は?」
「いま、…キスしたじゃん」
「これが証拠?」
 メイスはそう言うと腕の力を強め、骨が折れそうなくらいにぎゅっと抱きしめた。本当かよ、と嬉しそうにまたつぶやき、俺の肩に顔を押し付ける。俺も同じくらい、いや、それ以上の力で彼の背を抱きしめ、燃えている彼の鼓動を全身で聞いた。
 昂った気持ちを抑えられずに深呼吸をする。ほろ苦い煙草の香り、ため息も逃したくないほど、俺の中はメイスで満たされた。
 顔が見たくて少し離れる。彼は名残惜しそうに眉根を下げて、その熱を帯びた瞳は、いつでも俺を静かな場所へ連れて行ってくれる。
 嬉しくて仕方がなかった。しがらみのない海の底へ、果てしない空の向こうへも、彼と一緒に行きたい。同じ景色を見ていたい。
「メイス、俺さ……わがままでごめん。俺メイスのこと幸せにしたいんだ」
 彼はいつものように細い目を弓形にたゆませ、ようやく俺を見た。
「奇遇だな。俺もゲーラと幸せになりたいと思ってた」
 俺の美しく甘酸っぱい、オレンジの片割れ。その青い瞳に俺が映って、俺の赤い瞳にも彼が映ってるはずだ。
 ずっと待ってた。
 彼は俺の、運命の人だった。

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