ゲーラがその店を訪れたのは夏の終わりだった。朝から晩まで溶けてしまいそうだった酷暑が、その後二、三度の雨の後、秋の様相を整えて、すっかり冷え込むようになった。
メイスに内緒で訪れたのは駅前にある雑居ビル。人の波に押されながらそろそろと近付き、ガラス越しのショーウィンドウを見入る。そこには既にたくさんの衣装や記念写真が飾られて、皆曇りない笑顔でおさめられている。
展示のひとつに目をやると、「あなたの一生の思い出に」と硬い明朝体で書かれてあり、足元に緊張が走る。
そこに至るまでに皆、どれほどの思いを越えて来ただろうか。自分達のように命を脅かされるような事はなかったにしても、契りを交わす彼らの間には途方もない壁もあったに違いない。
真っ新な笑顔が鏤められた店頭を見て、俺たちもそうなれるのだろうかと、期待と不安がない混ぜになる。
よっしゃ、と心中で唱えて自動扉をくぐると、すかさず店員から声をかけられる。黒いスーツ、黒髪のポニーテールと真っ黒な出立の彼女は、白い歯を見せながらにっこりと笑う。普段のスタッズ付きジャケットで来たゲーラは、真っ白で清潔感漂う内装に、早くも場違いでは無かったかとうろたえた。
「いらっしゃいませ、ご予約の方ですか?」
「いや、雑誌を見て……」
まずい、予約制だったっけ? 肝が冷えて引きつるのを隠しながら返事をすると、店員は笑顔で答えた。
「そうでしたか! ありがとうございます。よければカタログご覧になりますか?」
突き返されなくてよかった。ほっとしたゲーラは、目の前で揺れ動く尾を見守りながら、店員にそのままついて行った。廊下にもたくさんの写真や利用者のコメントとして色紙類が飾られてあり、やはり見た通り人気があるんだなぁと感心した。
店内は心地よい温度に保たれ、オルゴール調のBGMについうつけてしまう。甘い香りの漂う半個室へ通されると、店員はまず深々とお辞儀をした。
「この度はおめでとうございます、こちら名刺になります…」
形式ばった対応は慣れていない。狼狽えながら、ども、と小さく会釈をすると、店員はゲーラに、ソファへ座るよう促した。
静々と目の前に置かれた四角い紙には、ウエディング・プランナーという肩書。
受付嬢じゃ無かったのか。プランナーやデザイナーというものはもれなく派手な人間がするものだと思っていたゲーラは、まじまじとそれを見つめ、出された水にも気付かない。
「ご予定はいつ頃でお考えですか?」
「あ……えと、その前に」
なんと切り出そうか逡巡する。その間にも手際良く並べられるいくつかのバインダーには「ドレス」、「新婦小物」、「会場一覧」の文字。
やっぱりそうだよな、でも言わなくては。どんなリアクションが返ってくるか、ゲーラは少し怖かった。
この結婚式場では同性同士のカップルも大歓迎と、雑誌でもホームページでもうたっていた。利用者のレビューもまあまあで、断られる訳もないとわかってはいるが、それでもやっぱり気が引けてしまう。
悪いことじゃない、隠すことでもない。ただふたりが幸せになる門出、それだけのはずだ。
意を決して彼女を見ると、ぱっと目を丸くされる。
「同性なん…です、けど。大丈夫っすか?」
恐る恐る言った。もしかしたら彼女を睨みつけてしまったかもしれない。唐突に不安になり、冷や汗も拭えないままぱっと目を逸らす。
「はい、それでしたらお衣装はこちらから、たくさんお選びいただけますよ」
彼女の声色は変わらなかった。予想以上に普通の返答だったので驚いて目を合わせると、にっこりと笑ってくれた。
よかった。安堵したゲーラは、これだけでも存分に満たされ、早くも泣いてしまいそうだった。
▼△▼△▼
次から次へと仕事が舞い込む。朝は早く夜は遅い。明るい時間に外に出られない。終わりの見えない大量の仕事をメイスは淡々と片付けていた。
プロメポリスから遠く離れ、三人揃って仕事を見つけた。食う寝るところ住むところ、一通りを揃えてくれた今の会社の上司には三人とも頭が上がらないでいる。だから業務内容に贅沢は言っていられない、それは重々わかっている。
しかし満身創痍だった。食事を取るのも一苦労で、立て膝に、卓に肘をついて体を支え、ようやくスプーンでカレーを含むのが精一杯。咀嚼も正直いうと、面倒だ。
ゲーラもほぼ同じ内容の仕事をこなしているが、彼が意外と消耗していないことを羨ましく思った。体が弱いとも聞いていたがそんなことはおくびにも出さず、力仕事も、雑用も、書類整理も率先して行なっていた。
夕飯も今夜はゲーラが作った。切って煮込むだけだと手際よくこなし、トントンと小気味良い生活音が流れる。メイスはソファにだらりと倒れ込み、子守唄のようなそれをうとうとと聴いていた。
香辛料の香りが鼻をくすぐり始め眠い目をこじ開けると、一汁三菜まではいかないがそれらしい食事が用意される。湯気が乾燥した肌に沁みる。温かい食事は、荒んだ心と体にはなによりのご馳走だ。
「すげえ、助かる」
「食え食え、明日も早いぞ」
ソファから立ち上がることは困難で、ずり落ちるように円卓につき冒頭のような行儀の悪い姿勢で栄養を掻き込む。
コンソメスープを口に含むと、じんわりと優しい味が身に沁みて、地獄の底で唸るようなため息が出る。ゲーラはその声におもわず笑った。
「おっさんかよ」
「はは、大概そうだなあ」
「こないださ、駅前のとこ行ってきたんだよ」
「駅前? の、なに?」
「ほら、お前言ってただろ」
なんのことだか完全に忘れた。疲労した脳味噌に駄弁を保存する領域なんて残しておらず、命や仕事に関わらない一切のことは後回しになっていた。
「なんだっけな…」
「まぁいいや、あのさ」
ゲーラが突然、姿勢を正した。食器を置き、口の端に米粒をつけたまま、メイスのことをじっと見つめる。
緊張した面持ちで穴があきそうなほどに見つめられているのに、メイスはそれどころではなかった。大事な話? いま? コメついてるけど。茶々を入れたい気持ちでいっぱいだったが、隙をつく体力もなかった。
せめて米粒は言ってやろうと口を開くと、同時にゲーラが震える声で発した。
「結婚してくれ」
メイスはあんぐりして、それ以上の身動きが取れない。それ、この状況でいう言葉か? 混乱と憤りが混じった鬱憤が吐き出されそうになって、それは霞ほどに残った理性でなんとか食い止めた。しかしやはりこのタイミングは理解しがたい。
「おま…なんで今言う……」
俺は本当に疲れているのに。考える力はこれっぽっちも残っていないのに。まだ俺に選択なんて消耗するようなことを強いるのか。俺の答えがまるで決まりきっているとでも言いたいのか。
食器をゲーラの方へ押しやりわなわなと机に突っ伏すと、気の抜けたため息が出た。ゲーラはおそらく本当に自分のタイミングだけで言っていたらしくあからさまに慌てだす。
「え、あ、わりぃ…。でも俺本気で」
「うるせえよ、風呂入る!」
「まだ沸かしてな」
「シャワー!」
バタンと怒声をあげながらドアを閉める。
ゲーラは自分が最悪のタイミングで事を成したとようやく気付き、さっと悪寒が走った。飯作ったところまではよかったのにな、と慣れない行動に後悔すらした。食事の続きは喉を通らず、味気ないまま無理に飲み下す。遠くで静かに聞こえる水の音を、砂を噛むような気持ちで黙って聞いていた。
シャワーヘッドをホルダーに挿したまま蛇口をひねる。ボイラーはまだ小さく火を灯すだけで、降る水は冷たい。
メイスはさっきまで泥のようだった自分の体が怒りに支配されている事に気付いた。今日の疲労、明日の徒労、分刻みのスケジュール、そしてゲーラのプロポーズ。頭がパンクしそうだ。しかしそれはキャパシティを超えたからではない。ゲーラのあの、何食わぬ顔で現状維持からの脱却を図った神経が気に食わなかった。
なんで急に言うんだよ。ゲーラのくせにそんな気配まるで無かった。ばかみてぇ。なんで今なんだ。
水を頭から被っても目が覚めない。ざらざらと流れ落ちる虚しい世界に片足を突っ込んで、しかし頭の片隅はふわふわと熱かった。
髪は体にへばりつく。気持ち悪いと言う感情すら起こらず、口を開けると頬を伝った水が口の中に入り、舌の上を滑り落ちて顎へ伝う。
耐えきれずしゃがみ込むと、水はようやく湯になり始めた。
「……俺が言いたかったのに…」
言葉は水音でかき消された。余裕がなかった。何も見えてなかったのは自分の方だと、メイスは自己嫌悪に陥った。
内緒で戸棚にしまわれた小箱は、それからしばらく取り出されることはなかった。
▼△▼△▼
仕事中の彼らの様子がおかしいと同僚から指摘され、リオはその言葉に訝しんだ。
そんな、仕事に影響を及ぼすほど彼らのメンタルが乱れることなんて見たことがない。
ロッカールームで倒れてるという通報を得て扉を開けると、中では澱んだ剣呑な空気が漂っていた。
まず第一。ゲーラが倒れている。室内に置かれた長椅子にうつ伏せで綺麗に横たわり、近付くとぶつぶつと独り言を言っている。息があるなら放っておこう。
第二。メイスが怒っている。背を向けて座っていて表情は見えないが、隣に据えられた灰皿には山のような吸殻が、長いもの、短いものと混同されて捨てられている。
きっとイライラして火をつけた途端揉み消したとか、そんなことを繰り返したのだろう。
「お前たち」
声をかけるとメイスが振り返る。慌ててくわえていた煙草を揉み消して、どうかしましたかと問う。ついでに寝ているゲーラの尻を叩く。
「おいゲーラ起きろ」
「ふたり共どうした、喧嘩でもしたのか?」
「あ、いえ、そう言うわけじゃあないんですけどね…」
メイスは視線を外し、ポニーテールの結び目を掴んで、さらりと髪の束をしごいた。
絶対に何かある。メイスがこんな風に髪をいじる時は、気持ちが落ち着かずそわそわしている時だった。リオはメイスの気持ちを察しながらも、逃げられないようにその目をじとりと見つめる。それにたじろいだメイスはあっさり降参し、おずおずと事の経緯を説明し始めた。
「ゲーラにプロポーズされました…」
「……なんと」
「ねぇ……」
あんぐりとしているとメイスは呆れ顔で、まだ椅子に突っ伏す彼に視線を送る。
「しかもカレー食いながら、米粒つけながらですよ。馬鹿馬鹿しくて嫌になります」
「ゲーラらしいじゃないか。返事はしたんだろう? どうして喧嘩になった」
「まだしてないんです」
「はっ?」
リオは、メイスが何を言っているか全く理解ができないと言う顔をして、今度はメイスにあんぐりした。
「な、何故だ…ゲーラのこと、好きじゃないのか」
「改めて言われると恥ずかしくて死にそうなのでやめて下さい」
「……素直になってくれ、メイス」
「たまに思いますね、なんでこんなやつ好きなんだろうって。でもそんなこと考えてるとこいつ気配で察するんですよ。んで機嫌取りに来るんです、鬱陶しいでしょ。察しなくても空気読まずににこにこしながらやって来るんです。それがもう可愛くて」
「それは……僕には嬉しくて仕方がないという顔にしか見えないんだが……」
「あっ、あの、嬉しいは嬉しいんですよ? でももっと、タイミングとか、ムードとか! あってもいいんじゃないかと思って」
「……まじで?」
「おはようゲーラ」
「おはようございます、ボス。メイス……本当に、嬉しいって?」
「うるせえ寝ぼけんじゃねぇ」
「こら、メイス」
「怒られてやんの」
「ンだとてめえ顔面いってやろうか」
「あぁっ、メイス、やめろ……あ、おいお前たち…あーー、ちょっ……ゲーラいい加減に……あっ! どさくさに紛れてキスをするな! おい! 僕を忘れるんじゃない!!」
結局ふたりはそのまま組んず解れつ殴り合いの大喧嘩を始めたが、隙を見たゲーラがメイスに悪戯ばかりするものだから、メイスの拳が重くなる一方だった。なんだ、ただの仲良しじゃないか。
同僚のロッカーに血痕が飛び散り始めた頃、言っても聞かないふたりの幹部に痺れを切らし、リオは黙って部屋を出て行った。自分が忘れられてしまったことへの鬱憤と、ふたりが幸せそうなことへの深い喜びと、混じり合ってふつふつと胸にせり上がるものがある。
バーニッシュ時代の、彼らの半ば行きすぎた忠誠心が和らいでいる事が、リオには喜ばしく思えた。そうやってふたりのこれからを作って欲しいと、素直に思った。
仕事場へ戻ると先ほどリオに告げ口をした張本人が、どうだった? と呑気に聞く。
リオは風船のように頰を膨らませ、勢いよく叫んだ。
「ご祝儀は僕が一番たくさん出す!」
▼△▼△▼
朝、メイスは一緒に出勤してくれなくなった。ひたすらに避けられ、無視をされ、ベッドはひとつしかないので仕方がないにしても、隅っこの方で丸くなって寝ている彼の背中を見るのは、さすがに心が痛んだ。
今日もメイスは、ゲーラが起床する頃に家を出る。ガチャ、と鍵を閉める音でゲーラは目を覚まし、彼の残り香を感じながら、片付けられたキッチンでコーヒーを淹れる。普段はインスタントの楽なものだが、今日はたまたま土産でもらったドリップタイプがあった。
湯を沸かし、その間に袋状になったコーヒーフィルターの上部を開ける。カップの上で直接ドリップができるように紙製のストッパーがついていて、それを無理に広げながら固定する。
「落ちんなよ」
やかんからは出来るだけ細く、高いところから湯を落とす。豊かな苦味が湧き立つと、虚しさを上書きできた気がする。
ビィ、とインターフォンが鳴った。誰だこんな朝から。怪訝に思いながら玄関を開けると、リオが立っていた。
「あれっボス、今日お休みでした?」
「おはようゲーラ、いや、ちょっとな」
一足遅れておはようございますと呟き招き入れる。リオはこのアパートを紹介された際、当然のように三人で住む気でいたふたりをよそに、自分は隣の部屋にすると言って聞かなかった。親愛なるボスのその言葉に寂しさもあったが、多感な時期に粗暴な大人ふたりとずっと一緒にいるのも精神衛生上良くないだろうと、ふたりは素直に従った。
リオは別に、彼らと一緒にいるのが嫌なわけではなかった。三人で食卓を囲いながら慎ましやかに暮らし、それぞれが自立し始めたらその後で自由になればいいと思っていた。しかしリオが思っている以上に幹部ふたりの関係は睦まじく、その光景に当てられてしまう節もあった。
単に応援したいのだ。だから身を引いた。けれど自分たちの関係が壊れることなどないと自負していたし、実際その通り、彼らはどこまでも自慢の幹部だった。
「メイスはもう出たのか」
「そうなんすよー最近さっさと行っちまって、帰りも全然待ってくんねーんだもん、参っちゃいますよ」
ゲーラはリオの分のコーヒーを入れにまたキッチンへ篭った。アメリカンに、苦味をあまり溶かし出さないように注意した。
「聞いたぞ、メイスにプロポーズしたんだって」
「えっ、え、誰に聞いたんすか!?」
「メイスに決まってるじゃないか、昨日一緒にいただろ」
ゲーラは決まり悪そうにコーヒーカップを円卓へ置く。あー、とかえー、とかもごもごしながら続けた。
「他なんか言ってました?」
「さあな、本人に聞け」
「ちょ…ボス冷た……」
リオは、毎朝毎朝早くに家をでるメイスを知っていた。偶然を装い話しかけると青い瞳が赤く腫れていた。どうしたと問うと視線が迷走しながら何でもないですと逃げるように去る。その後ろ姿が悲しみを背負ったまま、唐突にいなくなってしまいそうな気配を纏っていた。
ミルクをカップに注ぐと、粘度のある渦が巻く。かき混ぜてようやく混じり合うそれを見、ふたりに重ね、全く面倒な阿吽だなとリオは感じた。わざわざかき混ぜて馴染ませてやらないといけない。不器用で素直すぎるふたりのその面倒さが、愛おしかった。
「寝室、いいか。探し物があるんだ」
「へ? いいですけど、なんか忘れてました?」
リオは困惑するゲーラの脇をすり抜け、ベッドルーム脇の戸棚に迷わず手をかける。そこにあるのは濃紺の小箱。
「ゲーラ、お前はこれを知ってるか?」
「なんすかそれ」
「メイスが悲しい原因はこれだ」
ぱか、と開けるとそこには見慣れないふたつのリング。言葉を失うゲーラ。本当に知らなかったのかと呆れるリオ。
「…お前、よくもメイスを泣かしたな?」
「ええっ、うわ、まじ? は? これ、えっ?」
訳がわからないまま真っ赤になるゲーラに、リオはとどめの一言をお見舞いする。
「メイスはお前のこと独り占めしたいんだよ、それをメイスの方から言いたかったんだ。なのにゲーラに先を越されて、いじけてるんだろ」
「な、な…メイス、えっ……えー、やべぇ…可愛くないですか? 嘘だろまじかよ」
「かわいい。だからもう泣かすんじゃない」
「あー、うわ、すみませんボス、俺頑張ります」
天を仰いだまま固まる右腕に、リオは黙ってうなずいた。
▼△▼△▼
メイスは雨が苦手だった。気圧が低迷するのに比例しこめかみがズキズキと痛むのを、毎度毎度大きな錠剤を飲み込んで耐えた。
雨は古傷も疼かせる。物理的なもの、精神的なもの、フラッシュバックは絶えず、悪夢すら見る。
「ぜーんぶゲーラのせい」
キッチンで自己暗示をかけながら、ポットの湯をマグに注ぐ。二匙分の粉ココアを熱湯で溶き、別鍋で温めたミルクを回し入れる。なぜ湯とミルクで分けるのかと問われることがあるが、これで覚えてしまったんだから仕方がないだろう。
底に溜まったココアを溶き回しながら、気まぐれの歌を歌う。
こうして意識を逸らしておくのがいい。薬も効いて、痛みはほとんど消えた。後味に残るのは、最近の悩みの種だ。
「メーイス、なにしてんだ?」
「うわ、危ねぇからよせ」
「俺の分ある?」
「ねぇよ、自分でやれ」
ゲーラが腰に抱きつきながら、今し方作ったココアのマグを、メイスの手の上から包む。冷てぇと肘鉄を喰らわせる。すると聞かれてもいないのに「俺もなんか作ってくる」と言ってキッチンへ向かった。
甘い香りが鼻腔に充満して、ソファの柔らかさとマグの温かさが滲みる。
ゲーラは自分の分を作ると、ソファの隣に腰を下ろした。ずし、と一人分の重みで沈み、メイスはいたたまれない気持ちになった。
あれからゲーラは結婚のことを言い出さない。だから俺もあえて振らない。「なんで今なんだ」という言葉の意味を、彼なりに考えたということだろうか。ひとり甘みを堪能していると、隣から落ち着いた声がした。
「なぁ、体調よくなったらさ、出かけようや」
「んー、休み取れなくねぇか」
「取るよ、ちゃんと言って合わせて取ろう」
「……どこ行くんだよ」
「メイスの行きたいとこ」
別にそんなんねぇけど。温まった体は安眠を求め眠気に襲われる。うとうとしながらも口を開くと、またゲーラに遮られた。
「メイスとちゃんと話したいんだ、そこの公園でも、海でも、買い物でもいい。なんなら今でもいい。俺には覚悟できてるから」
ゲーラの考えていることが、昔は全部わかった。あの頃は停滞して、何もなくて、日々を暮らしていくのがやっとだったから。
今はどうだ、変わらず隣にいるのになんにもわからない。どんどん先へ進んでいく彼に置いていかれるんじゃないかと、呆然と悲しみに暮れたこともある。
「はは、覚悟って、大袈裟だな」
「笑えるよな、昔はお前のことなんでもわかったのによ、今はちゃんと話さないとって思うんだ」
ゲーラが手を伸ばし、メイスの手の中のマグに蓋をするように掴む。だんだんと近付く鋭い瞳から目を逸らせない。すっと離れるとゲーラは優しく笑って、唇をぺろっと舐めた。
「…甘。砂糖入れすぎじゃねぇ?」
「う、……うるせぇよ」
「決まりな、雨が止んだら出かけよう」
怖いとさえ思った。血液が唐突に頭の先まであがってのぼせてしまいそうだ。そんな感情を俺にもたらすのはいつもゲーラで、彼がいればなんだって出来た。自惚れなんかじゃなく本当に、死んでもいいとさえ思っていた。けど今は、彼を無くすのが怖い。これではただの依存だ。だからこれ以上はだめだと思った。
口に移った、ほんのりと立つ苦味を歯で噛み潰す。
「……あのさ、」
「ん?」
「…俺は、男だ」
「うん」
息が止まりそう。自分が何をしたいのかわからなくなって、彼の優しさに応えられない自分は無価値に思えた。そんなやつなら、いないほうがいい。
「結婚、とか、世間からどんな目で見られるか、わかんだろ。本人の自由だなんだって結局忌避の目に晒されるのはわかってるんだ。いくらプロメポリスから離れたからって、俺たちは核だったんだぞ、バーニッシュの! 悪目立ちしてバレたらどうする。ボスまで悪く言われちまう」
「ボスは応援してくれてんだろ? 仮にボスが俺たちを見放したって、俺はお前が好きだ。それの何が悪りぃんだよ」
「惚れた腫れたで全部うまく行くほどこの世は甘かねぇんだよ!」
虚が膨らむ。ゲーラは黙って聴いてる。ゆっくりと語りかける口調は、蜜月のようで涙が出そうだ。
「メイス、あぶな」
「なんで今なんだよ、いつだっていいだろこんな話! 俺は疲れてんだよ!」
「聞けよ」
止まらない。その暖かさが怖い。メイスはマグを手放せないまま、怒りに似たやるせなさを募らせる。振り解こうとしても、びくともしない。
いつもの部屋でメイスは雨に濡れたような寒さを感じた。頭はまた鐘の音を鳴らし、研ぎ澄まされた金属音が耳をつく。こみ上げるこの感情を素直に出すことが出来ず生きるための呼吸をする。
「いつも勝手に走り出して、俺のこと何にも考えないで、後ろからついていく俺の身にもなれよ!」
ゲーラは眉間にしわを寄せながらも、平静を保とうと努めた。メイスの懸念していることもわかる。けどそんなことは取り越し苦労だと思って欲しかった。どうしたら伝えられるか、考えを巡らせるにつれ口調は強くなる。もはや懇願だった。
「俺がずっとお前を引っ張ってく。俺が、お前をずっと支えるから。だから辛いことは言え。今回勝手に色々決めちまったのは悪いと思ってるよ。けど、俺、お前と一緒に生きていたいんだ」
「別に結婚しなくたっていいだろ? 今でも充分一緒にいるじゃねぇか」
「……それは、なんつーか」
「なんだよ理由があるなら言ってみろよ」
「…それは後でいい」
「よくねぇよ! 今聞いてるんだろ! それとも何か、考えなしに揺さぶって嫌がらせのつもりか!」
ゲーラは中身がこぼれないように抑えていた手を、そっとメイスの肩へ移した。普段は冷たいはずなのに、今は火のように熱い。腕をちぎられそうなほどに強く握られて、肩がすくむ。
「……お前のこと、俺のもんだって言いてぇんだよ。籍は入れらんねぇけど、メイスを、俺だけのものにしたい……指輪とか、そういう形でもいいから、縛り付けておきたかっ…た」
「……は」
「い、いやちょっと待て、語弊がある。縛りたいとかそういう訳じゃなくて、その…メイスのこと、誰にも取られたくねーから、早く俺のもんにしたかった…」
顔を腕で覆って、けどメイスからも手を離さない。自分を掴むその手が熱を帯びて、逸らされた瞳が煌々とするのを、メイスは黙って見た。
とうの昔から俺はお前のものなのに。切なげに眉を寄せる彼をそれ以上責めることはできなかった。
▼△▼△▼
早朝思いがけず覚醒し、二度寝を試みてもだめだった。メイスにはその理由は嫌と言うほど理解していたが、とても納得できるものではなく、言うことを聞かない体に辟易としていた。
ベッド脇の戸棚を開け、それがあるのを確認しまた閉める。隣で熟睡する赤い髪をちらと見て、起きていないことを再確認する。
「……どうするかね、これ」
ミッドナイトブルーの、長方形の箱。蓋をかぱりと開けるとふたつのリングが収まっている。
そう言うものがひとつくらいあっても良いだろうと、つい先日目にしたものだ。サイズなんて知らない。ゲーラはこういった小物に無頓着で、一緒に来たとしても興味をそそられることはないだろうからと勝手に買ってきた。
しかし懸念もあった。このリングで、彼を縛ることにはならないだろうか。彼が不要なプレッシャーを感じたりはしないだろうか。
そう逡巡しているうちに件のカレー事件が勃発してしまったのだ。結果的に自分の心配は徒労だった。しかし自分の精神面が追いつかず、あれからまともに会話をしていない。
ゲーラはプロメアが去ってからよく眠るようになった。元からロングスリーパーな彼はさらに質の高い睡眠を得て、炎があったときとほとんど変わらないリズムを保っている。だからこそ活動中は元気でいられ、それを羨ましいと思うことも多々ある。こんな風に事も無げに、愚直に意見を言えることは、昔からの彼の長所のひとつであると思っていた。
「んぅ……」
ぎくっとして振り返ると、ゲーラは長い手を、何かを探すように、確かめるようにシーツに這わせている。毛布を差し出しても顔をしかめるだけで落ち着かず、情けだと思ってようやく手を差し出す。指先だけでつん、と触れ合い、しかしそれだけで彼の体温を確実なものに感じて胸が込み上げる。ゲーラは途端に表情を緩め、手繰り寄せるようにして俺を抱きしめてくる。手は冷たいのに、押しつけられた体温は熱い。彼は大きく息を吸って、安心したような呻きごえをあげる。かかる吐息がくすぐったくて、確かにそこにある鼓動を聞きながら、メイスは何もかもがどうでもよくなった。ゲーラはもしかしたら、指輪をもう準備してるかもしれない。また改めてプロポーズの言葉を言ってくるかもしれない。これまでのことは全部、自分の積み重ねたことが無駄骨になってしまったことに勝手に苛立っていただけだ。彼の言うことに、本当は文句のひとつもないはずだ。
「……苦しい」
別に苦しくない。心地よい束縛が自分の心を溶かした。けど素直にそれを認めるのが癪だった。
ゲーラのくせに、俺の裏をかこうなんて百年早い。
「ん…あ、メイス、おはよ」
「…起きたか」
目を覚まし、メイスに気づいた彼は、いつものように長い髪をするりと撫でる。それから頰に指を沿わせ、額に挨拶のキスをした。
「んあーよく寝たわー、なに、寂しかった?」
未だ寝ぼけた瞳のまま、へらりと笑って伸びをしている。お前がな。口には出さず、黙って彼の薄い胸に顔をうずめた。
▼△▼△▼
本日十六時からご予約の方は、同性婚。
そんなカテゴライズは無用だと何度も課長に上申しているのに、一向に改善の兆しがないことにプランナーは憤っていた。
時代遅れのハゲオヤジめ、そう悪態をついても意味はない。しかし赤の他人の幸せを真摯に願うプランナー始めスタッフたちとしては、カップルが同性だろうと異性だろうとやることは変わらない。ただ自分の責任を果たすのみだ。
十六時からはゲーラが、メイスを初めて連れてくる。最初の来店時、まだプロポーズもしていないと言っていたのに彼女は随分驚いたが、見た目によらず純情そうな彼ならきっと大丈夫だろうとプランナーの勘を働かせ、不安がっていた彼を励ました。
その手前、今日の来店時のゲーラの顔色が気になってしまう。頼む、成功していてくれよ。プランナーは手を合わせた。
自動扉が開くと突風が吹く。ビル風の吹きすさぶこの近隣では仕方がないことなのだが、もっぱら入り口のすぐ前に受付があるのがいけない。せっかくセットした前髪が崩れますぅ、と新人がぼやいていたのを思い出した。
ひゅお、と書類が飛ばされそうになり、来客を知る。
顔を上げると、ゲーラがこちらに気づき笑顔を向ける。プランナーはすべて察し、意気揚々と席を立った。
「いらっしゃいませ、お待ちしておりました。お連れ様ですね、わたくしこう言うものです」
そっとメイスに名刺を渡すと、メイスは礼を言って律儀に両手で受け取った。その仕草に、プランナーは心の中でガッツポーズをした。この彼にこのお相手あり、性格面は予想通りの「良」客だった。
奥の半個室へ通し、ほんの少しの世間話をする。始めは照れたり緊張していたふたりだったが、先日ゲーラから聞いた話題を振るとだんだんとその糸もほぐれていき、自らカタログのページをめくるようになった。
「お身内だけでしたら、カフェを貸し切って行うこちらも人気ですね。ちなみにご予算は?」
楽しい話ばかりをしているわけにもいかない。面倒な話は序盤に終わらせておくに限ると、すかさず切り込む。
ご予算。その言葉にゲーラとメイスの手がはたと止まった。すっと互いを見つめあい、すっとプランナーを見た。
あまりに息があった所業につい笑ってしまう。いかんいかんと律して、聞こえないように小さく咳払いをする。
「失礼しました、一応このカフェのプランですと、貸切料と、エートこれとこれと、こんな感じになりますねぇ」
電卓を叩きふたりに見せると、また同じ顔で驚いている。それから頭を寄せ合いひそひそと相談しているが、地声が大きいので丸聞こえで、プランナーは笑いをこらえるのに必死だった。
「まずいぞメイス、俺何にも考えてなかった」
「俺もだ……意外とするな」
「給料どれくらいだっけ」
「言うて何ヶ月かでまかなえる額じゃねえぞ」
人柄は良客だったが、なかなか苦労しそうだなと、プランナーは笑顔を崩さずに思った。
▼△▼△▼
佳き日は誰のもとにも訪れる。隣人にも、要人にも、世界を震撼させたテロリストの端くれにも。木漏れ日さす中庭だった。招待客も着飾り、しかし今日の主役を差し置くことはなく粛々とその時を待っている。
「メイス……どうしてヒールにしたんだ…」
「すみませんボス、言われるままに決めていったらこうなってしまい」
むすっとしたリオを見下ろすメイスは、今からでも別の靴を頼みましょうかとおろおろしている。
リオにはその表情が好ましかった。殺伐とした環境で眉間にずっとしわを寄せていた彼が、いまは感情的に眉根を下げている。
「いや、いいんだ。背伸びして歩く」
「それはちょっと……危ないですから」
メイスの両手をとり、胸元へ寄せる。嬉しさを隠せないまま、子供に言い聞かせるように、ゆっくりと伝えた。
「このバランスが良くてこの靴になったんだ。綺麗だよ、メイス」
はた、と目を丸くしたメイスは、それからふいと顔を伏せた。彼は今、この上なく幸せだ。自分を愛する人たちに囲まれ、自分が一番愛する人と結ばれる。何物にも代えがたい真実を、神の前で誓う。
扉係がそろそろですと二人に告げる。
穏やかに流れ出すBGM。これはリオが決めたものだ。燦々と降り注ぐ太陽、その光を反射させ、すべての還る場所となる海。朗らかで雄大な、ふたりの門出にふさわしい曲だと思った。
扉が開くと、ヴァージンロードの中腹にゲーラが立っている。こちらを振り返りリオに会釈をしてから、メイスを精悍に見つめている。ゲーラの気持ちがリオにはわかる気がした。美しく凛々しい僕らの青い海が、永遠の幸せを手に入れる瞬間だから。
「メイス」
「はい」
「かっこいいな、ゲーラ」
「…はい、俺の」
メイスがふっと小さく言うと、リオは耳をすます。柔らかなBGMにかき消されたりしないように、じっと遠くのゲーラを見つめて、隣のメイスに心を寄せた。
メイスは胸がいっぱいになった。この言葉がどれほど嬉しいものなのか、今初めてわかったようだった。噛みしめるようにゆっくり、大事そうに口にした。
「俺の、夫なので」
リオが先に、歩みだした。
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