キラキラと埃の舞う参道、背の高い本棚がひしめく言葉の杜。これは私だけがお目にかかれる特別な景色だった。
この古書店は十年ほど前に祖母から受け継いだもので、片田舎の風貌を残した店構えは、都市開発で乱立したビル街で、タイムスリップしたかのような趣があった。
客足は少ない。歴史の古い市立大学はあるが、一駅先の巨大な専門店に皆流れてしまう。だから私は昼下がりを、店奥の玉座にて売り物を読み漁る時間にあてていた。
アルミサッシの引き戸が軽やかな音を立てて開く。ひょろりと高い身長、少しよれた生成りのシャツ、スクエア型の紺色の眼鏡。少し垂れた優しい目を携えて、彼はやって来た。
「すみません、これください」
空気を含んだ柔らかそうな赤い髪を後ろで小さく結って、頼りなさげに首を傾げ、薄い一冊を差し出してくる。
「はい、二百円です」
「えっそんなに安いんですか?」
そんなにって、裏に値札が貼ってあるでしょ。そうですよ、とにっこり笑いかけると、彼は髪色と同じ赤い瞳をぱっと開き、嬉しそうに私をみた。
「この作者、僕と地元が同じなんです。久しぶりに見たから懐かしくなっちゃって」
彼が手にした本はボーイスカウトの少年少女がキャンプ先であらゆる難関に立ち向かう冒険小説で、作者はこの作品で一躍時の人となった。しかしシリーズ終了後スランプに陥り、「もういい」とだけ残して筆を折ってしまったのだ。もう四半世紀も前のことで、これはその初版本だった。
しかし私はそんなことより、彼の地元に興味を持った。
「えっ、私もそうなんです」
故郷からこの街は電車を乗り継いでも何日もかかり、過去を捨てる覚悟で来た私には、彼は旧知の仲のような親近感を覚える。
「お名前は?」
「……アンネ」
アンネ。女性のような名前だが柔和な風貌の彼にはよく似合っていて、細めた目と、口角だけをくっとあげた微笑みに、初対面にも拘らずそそられる。
彼は私の質問に一つ残らず答えてくれた。彼はなんと近所の大学院生で、以前から店先を何度か通っていたという。友人と一緒だと寄ることができず、ようやく足を運べたと照れながら頰をかいた。
専攻は?と聞くと、数学です、と答えた。今日は私の予想が尽く外れる。見た目で判断しては行けないなと、ちくりと胸が痛くなる。
火曜と金曜の午後は、彼ととりとめない話をした。バイトも授業もないので希少な古書や専門書を読みたいのだそうだ。そう言いながら来るたび私と延々話をしているのだから、元来人懐っこい性格なのだろうと微笑ましく思った。
「就活はいいんですか?」
「僕はもう決まってるので。家を継ぐんです」
またもや予想外の出来事だった。驚きすぎて唖然としていると、意外としっかりしてるんですよ、と彼はまた照れてしまう。
「じゃあ、卒業後は会えなくなりますね」
それと同時に彼の携帯電話が鳴った。二つ折りの端末をかぱりと開き、はっとした表情で画面に刮目する。
「大丈夫です?」
「あっはい、すみません。ニュースメールだったんですけど、家の近くにバーニッシュが出たらしくて」
「えっ」
「でもまぁ大丈夫でしょう、あいつら大きな建物しか燃やさないし。そうそう、あと三ヶ月で帰ります」
「せっかく友達ができたと思ったのになー」
冗談ぽく笑うと彼は精悍な顔つきでじっと私を見つめる。しかしすぐに目を逸らしたかと思うと、ずれた眼鏡を中指の第二関節で整えた。
「……僕は、あなたと話してる時がすごく楽しかったです。大学の友人とはまた違う話が出来て、博識な方だなぁって。純粋に尊敬できます」
彼の瞳は赤くて、燃えるようで、小さな三白眼の奥行きに飲み込まれそうになる。
意図せず跳ねた心臓を隠すようにレジカウンターに肘をついた。
「そんなこと言っていただけるなんて、ありがたいなぁ」
彼はくす、と笑って、丸椅子から立ち上がる。
「また来ます、それでは」
それから彼は姿を見せない。三週間が過ぎ、学生最後の冬を満喫しているんだと思うと、喜ばしいような悲しいような、ぽっかりと心に穴が空いた感覚に陥る。
この歳になって学生に惹かれるなんて思っても見なかった。就職だ結婚だと母に急かされ、大きなコミュニティに気疲れをしていた頃辿り着いた街。祖母を頼ってきたことに変わりはないが、私にとっては新しいスタートだった。
あれから十年。私はひとりに慣れすぎた。寂しくないと言えば嘘になるかもしれないが、窮屈な社会規範に押し込められるくらいなら、私はこの言葉の森で、本と一緒に往生するのが性に合っている。
今日は少し頭が痛い。低気圧のせいか、季節の変わり目だからか、どちらにせよ大したことではない。
コーヒーでも淹れようかと席を立つとズキンと大きく頭がうねり、激しい耳鳴りにうずくまる。突然静電気がバチバチと音を立て、重たい違和感を和らげるために二の腕をさする。
「え……?」
次の瞬間、赤い炎が発砲音をあげて吹き上がった。怯んでひゅっと息を吸うと開いた口からもそれ吐き出され、瞬く間に全身が炎に踊らされていく。
バーニッシュフレアだ。ニュースで何度も見たあの恐ろしい炎が体を包み、目を見開いた視界の先では、蛇が荒々しく本棚に噛み付いている。
「私…嘘でしょ……?」
いや、いやだ。お婆ちゃんの本が、店が、私の居場所が……!
ひきつけを起こしたように浅く息を吸う。あまりのことに膝から崩れ落ちる。辺りは見る間に火の海となり、一心不乱に燃え盛る。
私はここで死ぬのか。店も守れず、祖母との思い出もぶち壊して。しかし自分ではどうにも出来ず諦めるしかないのかと首を振る。
ふと、真っ赤な景色の真ん中にひとつの人影を見た。見慣れた背格好。違うことといえば、髪を結っていないこと、スタッズのついた革のジャケットを着ていたこと、眼鏡をかけていないこと。しかしそれ以外は、密かに待ちわびたあの姿だった。
危ないから逃げなさい、その言葉すら出ず指先が震える。
彼は灼熱の中、平然と歩みを進める。そしていつもより低い、優しい声色を私の上に降らせる。
「あんたには悪いことをした。こうでもしねぇと、来てくれねぇと思ったから」
「あ……アンネさん…?」
悲しげな表情で、彼は混乱した私に炎を吐く。あお色のそれは、私も、私の炎も、まとめて安らかに包み込んだ。
美しく澄んだ、燃えるような赤色の瞳。蛇はその奥にある海のようなおおらかさに、哮りを鎮めそっと頰を寄せていく。
彼は私に、節くれた左手を差し出す。私が流すはずだった涙が、彼の頰を静かに伝う。
そうか、私はまた、生きるのか。
「ゲーラだ。俺と行こう」
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